第二部

 

反革命

 

一章

 

反革命は反動

 

1 反革命は革命に反対する特定かつ直接的戦争

 

革命が前述のようなものであれば、反革命とはどのようなものでしょうか? この言葉の文字どおりの ― つまり日常の言葉の中で誤用された扇動的な暗示を取り去った ― 意味からすると、反革命は反動にほかなりません。つまり、それはある行動に反撥して起こされる行動です。例えば、反宗教改革と偽宗教改革の関係は反革命と革命の間に成立します。

 

2 この反動の高貴さ

 

反革命の高貴さと重要さは反動のこの性格に由来します。実に、もし革命が私たちを殺すのであれば、そのような動きを粉砕することを目指す反動より必要なものが他にあるでしょうか? 反革命の反動に原則として反対であることは、世界を革命の覇権に引き渡すことを望むようなものです。

 

3 現代の敵に向けられた反動

 

このように考えられた反革命は雲の中での動き、幽霊相手の戦いではないし、そんなものではあり得ません。それは実に今日の革命にいどむ二十世紀の反革命でなければなりません。故に、反革命は今日燃えさかっている革命の情熱、今日形成されている革命思想、今日見られる革命的雰囲気、現代のあるがままの革命的美術と文化、今日もっとも活動的な革命運動家や革命的世論に対して挑まれていなければなりません。ですから反革命は過去にあった革命の悪行を列挙するだけでなく、現代にある私たちがその進行をくい止める努力のことです。

 

4 反革命の現代性と誠実さ

 

反革命の現代性は革命を無視したり、それと最低限の同盟を結んだりすることにあるのではありません。逆に、それは革命の不変の本質とそれに関連する現代的特徴を知り尽くし、これら両者に対して賢く、組織的に、可能な限りの合法的手段を用い、すべての光の子の協力を受けて戦うことにあります。

 

二章

 

反動と歴史的に変わらぬもの

 

1 何が復興されるべきか?

 

もし革命が無秩序の導入であれば、反革命は秩序の復興でしょう。そして秩序と言うとき、その意味はキリストの統治におけるキリストの平和、つまり厳格で位階的、基本的に聖であり、反人類平等主義、反自由主義であるキリスト教的文明を意味します。

 

2 何が改められるべきか?

 

しかし、この世のことに関して動かざるものは存在しない、という歴史の法による力によって反革命から生じる秩序には、革命以前に存在していたのと異なる秩序にしてしまう独特の特徴を備えていなければなりません。もちろん、これは諸原則についてではなく、その偶有性についてのみ言われ得ることです。しかし、これらの偶有性は非常に大事で、無視するわけにはいきません。

 

この点に関して詳しく掘り下げることは不可能なので、以下の点を指摘するだけにしておきましょう。一般的に言って、一つの有機体が割れたり傷ついたりしたとき、いやされる箇所は特に強化されます。これは新しい傷の可能性に対して二次的原因を通じて働く愛に満ちた摂理の働きです。これは骨折した患部自体が治療の結果強化される骨折の場合とか裂傷の場合に見られます。これは霊的次元で起こる類似の出来事の物質的イメージです。一般的ルールとして、心の底から悔い改める罪人は、彼が罪を犯す以前の状態よりも罪に対してもっと大きな嫌悪感を持つものです。罪を痛悔する聖人たちの遍歴がこのケースに当てはまります。ですから、教会も自分を滅ぼそうと試みたすべての悪に対しては特に武装して立ち上がるのです。その典型的例が反宗教改革です。

 

この掟によって、反革命から生じる秩序は、以下の三つの点において、革命によって傷ついた中世時代の秩序よりさらに燦然と輝くことになるはずです。

 

●教会と教皇職の権利に対する深い尊敬、世俗生活における諸価値の可能な限りの聖化。これらはすべて世俗主義、諸宗派共同主義、無神論、汎神論、これらそれぞれからの諸帰結に反対するものです。

 

●革命が持つ人類平等主義的形而上学に反対するものとして、社会、国家、文化、生活のすべての面で顕著となる位階性を大事にする精神。

 

●胎芽状態もしくは不鮮明状態にある悪をこまめに探知し、戦うこと。その悪を嫌悪感をもって破廉恥行為として非難し、それがたとえどんな形態をとっていたとしても、そして特に、革命の自由主義的形而上学に従って悪を自由に振る舞わせ、保護する傾向に反対して、正統性と習慣の純潔を攻撃するときには、断固として反撃すること。

 

三章

 

反革命と新奇なものに対する渇望

 

革命の子らである多くの現代人に見られる傾向は、限りなく現在を愛し、未来を礼拝すること、無条件に過去を軽蔑し、憎むことです。この傾向がある限り、人は反革命についていくつかの点で誤解してしまいます。誤解は解かれねばなりません。多くの人々にとって、特にその伝統主義的、保守的性格が反革命を人間の進歩にとっては天敵であるかのように見せてしまうのです。

 

1 反革命運動家は伝統主義者

 

A 理由

 

前述のように、反革命は革命に対抗して発達する動きです。革命は常に私たちが祖先から受け継ぎ、未だに保っているキリスト教の制度、教義、習慣、そのあり方、感じ方、考え方という全遺産を敵とします。ですから、反革命はキリスト教伝統の守護者です。

 

B くすぶる灯心

 

革命はキリスト教文明を攻撃します。そのやり方は多かれ少なかれブラジルの森の中に生えているある種の木のようです。ウロスチグマ・オレアリアと呼ばれるこの絞め殺しイチジク型植物は他の木の幹を根で覆ったり、巻き付いたりして絞め殺してしまいます。その「おとなしい」低速の流れを装って、革命はキリスト教文明に巻き付き、それを殺してしまおうとすり寄ってきます。現代、この破壊という奇妙な現象はまだその悪行を達成していません。つまり、現代人はキリスト教文明の亡骸と言っても差し支えないような、革命とキリスト教文明の混血状態の中に生きています。人の記憶にはつい最近廃止されたばかりの数多い伝統の芳香と影響が何となく残って、数多くの革命的制度や習慣と共存しています。

 

未だに生命を保っている輝かしいキリスト教的伝統と、レオ十三世が回勅『レールム・ノヴァールム』の書き出しで言及なさった、新奇なものへの執着に鼓吹される革命行動を目の当たりにするとき、真の反革命運動家が良い諸伝統という宝物倉の熱心な守護者であるのは当然のことでしょう。なぜならこれらこそ、未だに生きながらえ、かつ未来に伝えるべきキリスト教の過去から受け継いだ価値だからです。その意味で、反革命運動家は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さなかった主キリストのように振る舞います。ですから彼はこれらのキリスト教的伝統を心を込めて守ろうとしなければなりません。反革命的行動は本質的に保守的行動です。

 

C 偽りの伝統主義

 

反革命の伝統主義者精神は、ある種の儀式、スタイル、習慣をそれらの起源になった教えを重んじることなく、単に古い形式が好きだからという理由のみで保存する偽のそして狭い伝統とは無関係です。これは健全な生きた伝統主義ならぬ考古学です。

 

2 反革命は保守的

 

反革命は保守的でしょうか? ある意味では正にそのとおりです。また観点を変えてみるとまったくそうではありません。

 

もし現代の何かの良いもの、しかも後世に伝えられるべきものを保存しようとする意味でなら、それは保守的でしょう。

 

しかしもしそれが、塩の柱のように不動のまま突っ立って傍観者になり、現代の善悪を両方ともお構いなく受け入れて、善悪の調和ある共存を受容して現在の革命過程を永続させたり、私たちを取り囲む混血状態を保存しようというのであれば、反革命は保守主義ではありませんし、あり得ません。

 

3 反革命は本物の進歩のために不可欠

         

反革命は進歩にとって有用でしょうか? もし進歩が本物の進歩であればしかりです。もしそれが革命の理想郷を目指すのであればいなです。

 

その物質的側面において、本物の進歩とは神の法に基づいて自然の力を人間の利益のために正しく使用することにあります。この理由のために、反革命は今日のギラギラした技術万能主義、新奇なものへの傾倒、スピード、機械、人間社会を機械的に組織しようとする傾向と手を結ぶものではありません。これらはピオ十二世が強く、かつ正確に断罪なさった行き過ぎです。

 

また、人々の物質的進歩はキリスト教が考える進歩の主要素でもありません。後者が考えている進歩は、なかんずく人間の魂の力が全的に発展し、人類が道徳的完成に向かって進むことにあります。それで、進歩に関する反革命の概念は物質的というより霊的諸価値を重んじることにあります。ですから、反革命にとっては個人的、社会的に、身体の善とか物質の活用でなく、真の宗教、哲学、芸術、文学に関する事柄を重んじることがふさわしいのです。

 

最後に、革命と反革命が持つ進歩の概念に関する違いを明確にしなければなりません。反革命にとって世界は常に涙の谷、天国への経過地であっても、革命にとって進歩とはこの世を、人が永遠について考えることなく幸せに生きる楽園にすることなのです。


正しい進歩の概念自体からして、革命過程は正にその反対であることが分かります。


ですから、真の進歩の正常な発達を維持し、進歩の見せかけでしかない革命的理想郷を打破するために、反革命は欠かせない条件であると言えます。

 

 

1 マタイ十二・二十参照。

 

2 ワイゼルマンス、Major Addresses of Pope Pius XII、第二巻二百三十三ページ、ピオ十二世、一九五七年のクリスマスのラジオ放送参照。

 

四章

 

反革命運動家とは

 

反革命運動家とは何者でしょうか? 二とおりの答えがあります。

 

1 その実際の姿

 

実際の反革命運動家は:

 

― 革命、秩序、反革命の精神、教義、方法論を理解しています。

 

― 反革命とキリスト教的秩序を愛し、革命と「無秩序」を憎みます。

 

― この愛憎をその理想、選択、活動の主軸とします。

 

もちろん、このような魂の態度を持つために高等教育が必要であるわけではありません。聖女ジャンヌ・ダルクは神学者ではなかったのに、深い神学思想に裏打ちされた自分の考えで裁判官たちを驚愕させました。同様に、革命の精神と目的を深く理解していたナヴァラ、ヴァンデー、チロルの単純な農夫たちが反革命にとって最優秀な兵士たちであったのです。

 

2 その可能性

 

反革命運動家になる可能性がある人たちとは、革命精神にその人格の深み自体が冒されていないにしても、不注意とかその他の理由のために、革命運動家たちの意見とか感じ方にそれとなく冒されている人たちです。警告を受け、照らされ、方向付けされるとこのような人たちは容易に反革命の立場に立つようになります。そしてこの意味で、彼らは前述の「準反革命運動家たち」とは異なります。

 

 

1 第一部九章を見よ。

 

 

五章

 

反革命の戦術

 

反革命運動家の戦術は個人、グループ、または実際の反革命運動家、潜在的反革命運動家、革命運動家という三つのタイプに関する世論、という観点から検討することができます。

 

1 実際の反革命運動家に関連づけられた戦術

 

実際の反革命運動家は、人々がついそう思いたがるほどは少なくありません。彼は物事に関して明確なビジョン、論理の首尾一貫性の基礎的愛、強い魂の持ち主です。ですから、彼には、現代世界の無秩序と地平線の向こうに迫りつつある破局について、透徹した認識があります。正にこのような認識があると、彼は自分が解決の糸口さえ見えない無秩序の中にあって、自分の孤立状態をいやというほど思い知らされます。そのようにして、しばしば反革命運動家は失望の中に沈黙を決め込んでしまいます ― 悲しいことです。聖書には"Vae soli"「倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ」と書かれています。1

 

反革命的行動はまず同志を探し出して、互いを知らしめ、自分たちの信念を公にするとき相互に援助させることです。それには二通のやり方があります。

 

A 個人の行動

 

この行動はまず個人的レベルで開始されなければなりません。大学生、軍人、教師、特に司祭、貴族、周囲に影響力がある労働者などの率直な誇り高い反革命の立場に勝って効果的なものはありません。先ずは反発を受けるでしょう。しかし忍耐すれば、その時の事情にも寄りますが、しばらくすると徐々に同志が現れるものです。

 

B 共同の行動

 

このような個人的接触は、当然、各地で何人かの反革命運動家を結集させ、あたかも反革命魂の家庭を形成します。彼らの力は集まること自体で何倍にもなります。

 

2 潜在的反革命運動家に関連づけづけられた戦術

 

反革命運動家たちは革命と反革命の宗教的、政治的、社会的、経済的、文化的などのすべての側面を提示すべきです。これは大事なことです。なぜなら、潜在的反革命運動家たちは、一般的に、革命にしても反革命にしても、たった一つの特殊な側面からしか見ていないからです。このような提示によって彼らは革命と反革命の全面的視野に魅力を感じることができ、また実際に魅力を感じるはずです。例えば政治という一つの側面だけを論じる反革命運動家は、自分の魅力の範囲を狭めます。その行動は不毛になり、破滅と死に向かいます。

 

3 革命運動家に関連づけられた戦術

 

A 反革命運動家のイニシアティブ

 

革命と反革命の前で中立を保つことはできません。意識的または無意識的に、そのかすかな意欲がどちらかの側にある非戦闘員がいるかもしれないのは確かです。しかし革命運動家は革命の完全で公然たる闘士ですが、反革命運動家についても同じことが言えます。

 

前述のように、革命はその正体、その真の精神、その究極目的を隠すことで進歩してきています。

 

革命運動家に対して最良の反論は、その行動の精神であれ一般的輪郭であれ、または一見無害で無意味に見える現象や行動であれ、その全体像を見せることです。このようにそのヴェールを引き剥がすことは革命運動にとっては最悪の打撃になります。

 

この理由のために、反革命的エネルギーは総力を挙げてこの点を突かねばなりません。

 

また、反革命行動の成功のためには巧妙な弁証法という他の工夫ももちろん欠かせません。

 

準反革命運動家とか反革命的傾向のある革命運動家と協力する可能性も、ないとは言えません。このような協力には、どこまでが賢明なのだろうか決定しなければならないという、特殊な問題点が付きまといます。著者の考えによれば、反革命の戦争は根本的かつ全面的に革命のウイルスに汚染されていない人々を結集することによってのみ、まともに遂行されるのです。反革命的グループがある具体的目標のために革命グループと協力できることは考えられ得ることです。しかし、革命の影響に冒された人々と全面的かつ連続的に協力できると考えることは、最悪の不賢明のそしりを免れず、さらにはおそらくほとんどの反革命運動が失敗する原因かもしれません。

 

B 革命勢力の反抗

 

通常、敵がいないとか、敵が弱体であると見ると、革命運動家は気短、多弁、傲慢です。しかし、もしだれかが誇り高く彼に敢えて抵抗すると、彼は黙りを決め込み、組織的沈黙作戦に入ります。が、それでも聞こえてくるのはその敵の「過度の論理」に対する遠慮がちながらの中傷とかつぶやきです。しかし、それは放置して置いても問題にならない程度の混乱と羞恥に覆われた沈黙です。この混乱と敗北の沈黙を前にして、勝ち誇る反革命運動家たちにはヴェイヨーの次の言葉を贈りたいと思います。「沈黙に問いかけて見よ。それはさらなる沈黙で応えるのみ」。2

 

 

4 反革命戦術におけるエリートと大衆

 

可能な限り、反革命は大衆を味方に付けるべきです。しかし、短期的にはそれを主な目的にするべきではありません。反革命運動家は大多数が自分たちの側に付いていないからと言って勇気を失ってはいけません。実に、歴史の詳しい研究は革命を達成するのが大衆でなかったことを示します。大衆は革命の指導者たちがいたからこそ革命の方向に進みました。反革命的指導者たちがいればおそらく反対の方向に向かったはずです。歴史の客観的研究は大衆という要素が二次的であり、主要因は指導者群の養成であることを示します。指導者養成のために、反革命運動家は常に自分の個人的行動をその手段に使い、正にそのために資金とか技術的手段の不足のために不自由していても、いい結果をもたらすことができます。

 

 

1 伝導の書四・十。

 

2 ルイ・ヴェイヨ、Oeuvres Complètes (Paris: Lethielleux Librairie-Editeur, n.d.)、三十三巻三百四十九ページ。

 

六章

 

反革命の行動手段

 

1 大規模の行動手段が望ましい

 

もちろん原則的には、反革命運動がテレビ、ラジオ、大新聞、理性的、効果的、人目に付きやすい広報など最善の手段が使えるにこしたことはありません。真の反革命運動家であれば、それらすべてが闇の子の手中にあると考えて、それらを利用することをすぐにあきらめてしまう同志の敗北主義的態度に影響されないで、常にこれらの手段を使うことを恐れてはいけません。

 

しかし、反革命運動はしばしばこれらの手段なしに計画されなければならないことも認識せざるを得ません。

 

2 小規模の手段の採用・その効果

 

もっとも小さな手段であっても正しい精神と知性で利用されるのであれば、反革命行動はそれでもかなりの成果を上げることができます。前述のように、反革命行動はたとえそれが個人的行動になったとしても考えられ得るのです。しかし、もしそれが成功するのであれば、それはすべての進歩に道を開く個人的行動なしには考えられません。

 

反革命的霊感に溢れたミニコミもそのレベルが高ければ、特に反革命運動家を連帯させるという手始めのためには驚くほど効果的です。

 

同様に効果的であるのは書籍、講演会、反革命に役立ち得る教職です。

七章

 

反革命の障壁

 

1 反革命運動家が避けるべき落とし穴

 

反革命運動家が避けるべき落とし穴は、しばしば反革命運動のエージェントに見られるある種の悪習です。

 

反革命的集会とか刊行物のテーマは注意深く選ばれねばなりません。反革命は、こまごました事柄や副次的な事柄を伴うその取り組みにおいてさえも、常にイデオロギー的でなければなりません。例えば、現在進行中または最近の政党政治を検討することは有用かもしれません。しかし、小さな個人的問題を過度に強調すること、その地方のイデオロギー的相手との闘争を反革命運動の主目標にしてしまうこと、それがどれほど正当なものであっても、反革命を単なる回顧趣味にしてしまうこととか、それがどれほど聖であり正義にかなっていたとしても、個人的忠誠から来る義務と考え、話すことは個を一般化することになります。それは自分が奉仕したいとを望んでいる運動を破壊することに通じます。

 

2 革命スローガン

 

また、これらの障壁はしばしば最良の分子からさえもドグマとして信じ込まれている革命スローガンです。

 

A 「反革命は時代遅れ」

 

これらのスローガンの中でもっともよく耳にし、かつ有害であるのは、現代の時代精神に逆行する反革命が成功するわけがないという主張です。歴史は逆戻りしないなどとも言われます。

 

もしこの原則が正しければカトリックの宗教は存在しないはずです。なぜなら主イエス・キリストと弟子たちが説教した福音と当時の環境は、真っ向から対立していたからです。また、ゲルマン・ローマ・カトリックのスペインは、存在しなかったはずではありませんか? 八世紀を経た後に達成されたコバドンガからグラナダ陥落に至るスペインのキリスト教的偉容の完全回復ほど、復活に酷似した事件は存在しません。それはある意味で過去への回帰であったと言えます。革命運動家にとって大事なルネッサンスにしても、それ自体は少なくともいくつかの観点からは、千年以上の期間も化石のようになっていた文化芸術の自然主義への回帰でした。

 

歴史は善の道と悪の道への行き来を包含するものです。

 

ところで、革命が何かを時代の精神と合致していると考えるとき、私たちは用心しなければなりません。それはほとんどの場合、自分たちが復活させることを望んでいる異教時代のごみあくたにしか過ぎません。例えば、古代世界で頻繁に見られた離婚、ヌード主義、圧政、民衆扇動のどこに新しさがありますか? なぜ離婚の自由を提唱する人たちが現代的で、結婚の不解消性を提唱する人たちが時代遅れである、と見なされなければならないのでしょうか? 革命が現代的と考えるものは、結局、傲慢、人類平等主義、快楽至上主義、自由主義でしかありません。

 

B 「反革命は否定的」

 

革命のもう一つのスローガンによれば、反革命はその名前からして、否定的であり、故に非生産的であると定義づけられます。これは単なる言葉の遊びに過ぎません。なぜなら、否定の否定は肯定であるという事実を踏まえて、人間精神は不可謬性(infallibility)、独立(independence)、潔白(innocence)、その他の、最高に肯定的概念を否定的な形で表現するからです。否定的表現を取るという理由で、これらの価値のために戦うことが否定主義になるのでしょうか? 第一ヴァティカン公会議は、教皇の不可謬性を宣言したとき、何か否定的なことをしたのでしょうか? 無原罪の御宿りは神の母の否定的特権でしょうか?

 

C 「反革命は理屈が多い」

 

三番目のキャッチフレーズは、反革命運動家の知的所産が否定的、論争的であるとします。確かに、彼らは誤謬の訂正に関係なく明白に真理を説明する代わりに、誤謬の反駁を強調するきらいはあります。これらの著作物は論争の相手をいらいらさせ、追い払ってしまうので、非生産的であると考えられることがあります。行き過ぎがあれば別ですが、この一見過度の否定的取り組みは実に正当です。前述のように、革命の教義はルーテルと初期革命運動家たちの否定の中に包含されており、何世紀かかけて非常に段階的に明白になってきました。従って、反革命的著作家たちは極初期から ― そして正確に ― すべての革命的公式には公式自体を超越する何かがあることを感じ取っていました。革命過程のおのおのの段階の中では、単にその特定の段階で主張されるイデオロギーに振り回されることなく、革命自体の考え方を考察する方がもっと大事です。もしそのような著作物が深く、効果的、全く客観的なものであるとすれば、それは革命の進展を、面倒ではあっても段階を追って、革命過程の中で含蓄的なものも明らかにしなければなりません。このようにして初めて、革命を正しく攻撃できるのです。これらすべては反革命運動家たちが革命の誤謬に関する論文を作成したり、指示したりしながらも、その眼を革命に釘付けにしてきました。この大いなる知的労苦において、教会教導職の庫に存在する真理と秩序の教えは、反革命運動家がその真っ暗な深淵を深く探れば探るほど、革命に反駁するために必要な新しい教えと古い教えを見いだすことのできる宝の倉です。

 

このようにそのもっとも重要な側面のいくつかにおいて、反革命の仕事は否定主義的であり、論争的ですが、これは健全なことです。類似の理由のために、教会教導職もしばしば歴史の過程で起こってくる異端に関連して真理を定義づけ、反対する誤謬の断罪としてこれらの真理を発表するのです。

 

3 革命スローガンに対する間違った態度

 

A 革命スローガンの無視

 

反革命の努力は書斎に籠もるような意味での学問的であってはなりません。つまり、それは純粋に科学的、学問的レベルの反革命弁証法だけで満足してはならないということです。このレベルの重要性を認めながらも、反革命運動家は常に世論として考えられ、感じられ、生きられている革命に全体的に目を向けている必要があります。この意味で、反革命運動家は革命のキャッチフレーズの反駁には特に重きを置かねばなりません。

 

B 反革命行動の論争的側面の無視

 

悲しいことに、革命をもっとも効果的に攻撃かわりに、反革命をもっと「感じよく」「肯定的」に提示するのは、その内容とダイナミズムを貧弱にする最悪のやり方です。

 

このような憂うべき戦術を採用する者は、敵の軍隊がその国境を侵犯しているというのに敵国と仲良くなることで、侵犯を防ぐために武力による対抗を止めるように命令する国家元首のようなものです。つまり、このようなやり方は降伏にほかなりません。

 

これは反革命的論文に情況に適したニュアンスがあってはいけない、ということではありません。

 

神である主は、不実なファリザイ人たちの影響が強かったユダヤで説教なさったときには、強い言葉を使われました。その反対に、素朴な心の人たちが多く、ファリザイ人たちの影響が少なかったガリラヤで、そのお言葉は論争的というより教師のそれでした。

 

 

1 マタイ十三・五十二参照。

2 第二部八章三B参照。

 

八章

 

反革命の段階的性格と反革命の「ショック」

 

1 反革命には過程がある

 

革命と同じく反革命にも過程があるのは当然で、秩序に向かうその漸進的、組織的進展は研究の対象になり得ます。

 

しかし、この進展には完全な無秩序を目指す革命運動と比較して根本的に異なるいくつかの特徴があります。これは善のダイナミズムと悪のダイナミズムとの間には根本的な違いがあるからです。

 

2 革命過程の典型的側面

 

A 急速な展開において

 

革命に見られる二種類の速度について話したとき、ある人たちが一瞬のうちに革命の警句に捕まってしまい、直ちに誤謬のすべての結果に苦しむことになるのを見ました。

 

B 緩慢な展開において  

 

また外の人たちが革命理論を緩慢に、一つ一つ受け入れるのも見ました。多くの場合、この過程は世代から世代にわたって間断なく発展します。革命がもたらす激動に強く反対する「準反革命運動家」の息子はそれほど抵抗を感じません。そして孫の代になるとそういうことに関心を示しません。そしてその次の代の曾孫は革命の流れに完全に飲み込まれてしまいます。前述したように、この理由はある家族の考え方とか無意識とか感じ方には、部分的に、彼らを秩序に結びつける反革命的習慣とかパン種があるからです。このような家族にあって、革命的腐敗はそれほど力を振るえないので、誤謬はあたかも変装しているかのように、革命精神を段階的にのみにしか浸透させることができません。

 

リズムのこの同じ緩慢さは、多くの人たちが生涯の中に自分の意見を完全に変えてしまうことの説明にもなります。例えば、十代の若者として、ある人たちは自分たちが住んでいる環境に応じて、慎みのないファッションに対する厳しい意見を持ちます。後に、習慣がもっとだらしない方向に「進化して」同じ人たちが流行を追うようになります。そして年を取るにつれて、若い頃なら断罪したはずのスタイルを好ましいと思うようになります。彼らがこの点にまで到達したのは、革命の微妙な段階を緩慢に、無意識に通過してしまったからです。彼らには、自分たちの周りにある革命が自分たちをどこにつれて行くのか見極める洞察力も元気もなかったのです。彼らは少しずつ、若い頃から燃えていた同年代の革命運動家たちと同じになってしまいます。これらの魂の中に残っている真理と善は、打ち負かされ、倒れているようにみえても、重大な誤謬と悪を眼にしてうろたえることなく、時としてはどんでん返しのように革命の邪悪な深さを理解させ、そのすべての顕現に対する反対の無条件、かつ組織的反対の態度を取るに至らせるのです。魂の目覚め、反革命運動の具体化を避けるために革命は段階的に進行するのです。

 

3 革命過程の破壊法

 

もしこれが革命の犠牲者の大半を革命に引きずり込むやり方であるとすれば、この過程から自分を引き離すにはどうすればよいのでしょうか? その方法は高速の革命的進展によって引きずり込まれた人たちが反革命に回心する過程とは、異なっているのでしょうか?

 

A 聖霊が使用なさる種々の方法

 

魂の中で神が使用なさる、尽きることなく変化に富んだなさり方には限りがありません。このように複雑な事柄を図式化使用とする試みは無駄です。ですからこのことに関しては避けるべきいくつかの誤謬と提案されるべきいくつかの態度を提案するに止めましょう。

 

だれの回心であっても、真実を語るに当たって時としては厳しく、また時としては母親の優しさでもって各人の必要に応じて語りかけられる聖霊の働きがあって、初めて可能になります。

 

B 何も隠してはいけない

 

このように、誤謬から真理への旅の中で、魂は革命の巧妙な沈黙とかその欺瞞的変態と戦う必要はありません。知るに値するもので隠されているものは何一つとしてありません。真理と善はすでに教会が完全に教えています。善における進歩は、人間形成の究極目的を人から系統的に隠すことによってではなく、むしろ、それを指し示して、それをさらに好ましく見せることによって保証されます。

 

ですから、反革命はその意図するところすべてを隠蔽してはならず「あたかもそれが傷物であるか密輸品であるかのように、曖昧な旗印でごまかして、カトリックの身分を隠すことは、忠実なことでも、感心すべきことでもない」という、ピオ十世が真の使徒のための規範的規約として定められたあの賢い規則を採用しなければなりません。カトリック信者は「耳を傾けてもらえない、または完全に見捨てられてしまうと思って、福音のもっと大事な掟を覆い隠してしまっては」なりません。同教皇は賢明にも以下を付け加えておられます。


私たちの教会に敵意を持つとか、神を信じない人たちを照らして、真理を伝える際に、ある種の日和見をすることは、疑いなく賢明に反します。聖グレゴリオが言っているように、切開の必要のある傷は、まずは、繊細な手で触られねばなりません。しかし、いつどのような場合もそうし続けることは、ひたすら人間的にのみ賢明であり続けることになるでしょう。さらに、こういうやり方は、司祭職と司祭たちにだけでなく、すべてのキリスト信者に与えられる神の恩寵に、あまり尊敬を払わないで、私たち人間の言行だけで人々の魂を動かそうとすることにならないでしょうか? 

 

C 大きな回心の「ショック」

 

こういうことを簡単な概要にまとめる試みを非難してきましたが、目の前に具体的にある革命への完全かつ意識的追随は大きな罪、根本的棄教であるように思われます。そこから立ち直るには同じく根本的回心が必要でしょう。

 

さて、歴史によれば、大きな回心は、通常、内的または外的出来事があって、その際に与えられる恩寵によって起こります。それはまるで、魂が爆発するような聖霊による背中の一押しによって起こります。これはケースによって異なりますが、しばしば類似した特徴を持つものです。実に、革命運動家が反革命に転じるときに、この背中の一押しはまれならず以下の道筋を辿るようです。

 

a この過程の急進的進化において、直接的に革命の極端を選択した根っからの罪人の魂の中には、常に、漠然とはしているものの、うちに秘められた知性、常識の力、善への傾向があるものです。神は、これらの魂から十分な恩寵を拒絶なさいませんが、しばしば、彼らが悲惨のどん底に陥るまで待たれます。その上で突然彼らの間違いと罪を、あたかも稲妻が照らし出すように気づかせるのです。あの放蕩息子も豚のえさで自分の腹を喜んで満たそうと思うほど堕落しなければ、自分の本当の姿を見て、父親の家に帰ろうと決心しなかったのです。

 

b 革命の坂道をゆっくりと滑り落ちつつある、生ぬるく、近視的な魂において、完全に拒絶されていない超自然的パン種は、まだ少しは活動できます。伝統的価値、秩序、宗教はまだでも灰の下にある琥珀のように光を放ちます。このような魂は、恩寵の対極にあるときに受ける健康なショックによって、目が開け、一瞬にして自分の中でやせ衰え、消耗しつつあったすべてを復活させるかも知れません。これは消えつつあった蝋燭の芯が再び燃え出すようなものです。6 

 

D 現代におけるこのショックの可能性

 

さて、迫り来る破局の前に立つ全人類にとって、これは正に神の慈悲によって準備された偉大な瞬間であるように見えます。急進的であれ緩慢であれ、両方の革命運動家たちは私たちがその中で生きているこのひどい黄昏の中で目を開き、神に向かって回心することができます。

 

民衆の扇動とか誇張なしで、また同時に弱くあることもなく、反革命運動家は革命の子らに事実を知らしめるために、この恐るべき光景を熱心に利用して、彼らの中に救いの「照らし」が生じるよう努めるべきです。私たちに襲いかかろうとしている危機を勇敢に指摘することは、本物の反革命的行為の特徴です。

 

E 革命の全貌を明らかにする

 

文明が全面的に滅亡してしまうかも知れない危険を、単に指摘するだけでは不足です。周囲を取り巻く混沌の中にあって、革命の極めて醜い全貌をあからさまにする方法を私たちは心得ていなければなりません。その全貌が見えてくるときに、激しい反動が爆発的に起こります。

 

このために、フランス革命の期間中と十九世紀全体にわたって、フランスでの反革命運動にはかつてなかった強さがありました。革命の顔がこれほど暴露されたことはかつてありませんでした。古来の秩序が難破させられた大渦巻きの巨大さは、突如、多くの人々の目を覚まさせ、人々は、何世紀にもわたって革命によって沈黙させられ、否定されてきた数々の真実に気づくようになりました。特に、その悪意と、ほとんどの人々が、長期にわたって潔白であると誤って信じ込んでいた思想とか習慣とかに、革命精神がどれほど深く関わっていたかを、明瞭に見始めたのです。

 

このように、反革命は革命がその犠牲者の上に投げかける呪縛から人々を解き放つためには、ほとんどいつでも革命の全貌を暴露しなければなりません。

 

F 反革命の形而上学的側面の指摘

 

革命精神の神髄は、以上見たように、原則的に、また形而上学的次元で、すべての不平等とすべての法律、特に道徳法を憎むことにあります。それだけでなく、傲慢、反逆精神、猥褻は、正にもっとも革命の道に沿って人類を進ませる諸要因にほかなりません。

 

ですから、反革命運動の非常に重要な部分は、形而上学的次元で考察された不平等、権威の原則、道徳法と純潔への愛を教えることにあります。

                           

G 反革命の二つの段階

 

a 革命運動家が根本的に回心して反革命運動家になるとき、反革命の最初の段階は彼自身に止まります。

 

b 第二の段階は長期にわたるかも知れません。その段階で、魂は回心の行為において取られた立場にそのすべての概念と感じ方を適合させ始めます。

 

反革命過程を詳細に描写するこれら二つの大きな、また全く区別された段階は、魂の中で起こるままに提示されています。必要な変更を加えれば、同じことは大きなグループもしくは全民族という規模でさえも起こるかも知れません。

 

 

1 第一部六章4を見よ。

 

2 聖ピオ十世、イタリア社会経済連盟総裁メドラゴ・アルバニ伯爵への書簡、一九〇九年十一月二十二日、パリ、ボンヌ・プレス、五巻七十六ページ。

 

3 聖ピオ十世の回勅 "Jucunda Sane"、一九〇四年三月十二日、パリ、ボンヌ・プレス、第一巻百五十八ページ。

 

4 前掲書。

 

九章

 

反革命の推進力

 

革命に推進力があるように、反革命にも推進力が存在します。

 

1 徳と反革命

 

著者は神、徳、善、特に位階性と純潔に対する形而上学的憎悪の中で解き放たれた人間の持つ激情のダイナミズムを、革命の最強の推進力であると指摘します。同様に、全く異なった性質ではありますが、反革命にも推進力があります。(その学問上の意味での)欲望そのものは道徳的に言えば中立です。欲望が悪くなるのはそれが無秩序になるときです。しかし、欲望が秩序に従う限りそれは良いものであり、忠実に意志と理性に従います。私たちは晴朗かつ高貴、しかも高度に効果的な反革命の推進力を探さねばなりません。しかし、それがどこにあるかと言えば、それは神が人の理性を治め、人の理性が意志の上位にあり、人の意志が感覚をコントロールするときに可能になる魂の活力の中にほかなりません。

 

2 超自然的生命と反革命

 

このような活力は超自然的生命を抜きにして説明が不可能です。聖寵の役割は正に知性を照らし、意志を強め、感覚を治めて善に向かわせることにあります。そこからして、魂は、堕落した本性の悲惨から救い上げ、そして実に人間本性そのもののレベル以上に高める超自然的生命から計り知れない恩恵を受けます。キリスト信者の魂に備わる力の中に反革命のダイナミズムがあるのです。

 

3 反革命の無敵さ

 

このダイナミズムには、どのような価値があるのだろうと不思議に思う人がいるかも知れません。そのような疑問に著者は、理論的にはそれが計測不可能なものであり、確かに革命のダイナミズムに勝るものであると答えます。「私を強めてくださる方のおかげで、私にはすべてが可能です。」

 

人が神の恩寵に協力する決心をするとき、歴史の奇跡は起こるものです。ローマ帝国の回心、中世期の形成、コバドンガに始まるスペイン奪回など、人間に可能であった魂の偉大な復活から生じたこれらすべての出来事を考えてみて下さい。徳を積み、真に神を愛する人々に立ち向かえる者はいませんから、このような魂の復活は無敵なのです。

 

 

1 フィリッピ人への手紙、四・十三。

 

十章

 

反革命、罪、贖罪

 

1 反革命運動家は善悪の概念を復活させるべき

                

反革命のもっとも意義深い使命の一つは善悪の区別、本論で言うところの罪、原罪、自罪の概念を再確立、または復活させることです。教会の精神が深く浸透していれば、この事業は、革命スローガンに多かれ少なかれ鼓吹されているある種の著作家たちがしばしば言うところの神の慈悲に対する絶望、仮病、厭人主義、その他を産出することはありません。

 

2 善悪の概念をどのように復活させるか?

 

善悪の概念は種々のやり方で復活させることができます。その方法には、例えば、以下のようなものがあります。

 

●世俗主義と超教派主義は論理的に無道徳主義になるので、世俗主義または超教派主義のにおいのするすべてのやり方を避けます。

 

●神には従順を要求する権利があり、従ってその掟は私たちに気に入るからではなく、従順の精神から従わなければならない真の掟であることを、機会を見て指摘します。

 

●神の掟は本質的に善であり、創造主の完全さが映し出される宇宙の秩序に合致していることを強調します。このような理由のために、私たちは掟に従うだけでなく、愛さなければなりません。また悪を避けるだけでなく、憎まねばなりません。

 

●死後の賞罰の概念を拡げます。

 

●正しさが誉められ、悪は社会的にも罰を受けるような社会的慣習や法律に肩入れします。

 

●人の中における原罪の諸結果、人の弱さ、人が最後まで堪え忍ぶため主イエス・キリストによる贖いの実り多さ、恵み、祈り、警戒の必要さを強く主張します。

 

●徳の教師、恵みの泉、誤謬と罪に妥協しない敵としての教会の使命を機会ある毎に示します。

 

十一章

 

反革命と世俗社会

 

反革命と世俗的社会は多くの価値ある論文で説かれてきたテーマです。この論文は、その中ですべての主題にわたって論じることが不可能であるので、反革命的世俗秩序の一般原則と、反革命と世俗的秩序の改善のために戦ういくつかの主な団体の関係を分析することに絞ります。

 

1 反革命と社会組織

 

世俗社会の中には社会問題に取り組んでいる数多くの団体があります。そしてこれらの団体は、直接かつ間接的に、反革命が目的とする主イエス・キリストの統治の確立という同じ究極目的を持っています。このように目的を共有するわけですから、反革命とこれらの団体の関係を研究する必要があります。

 

A 慈善事業、社会奉仕、雇用者と労働者その他の組合

 

a これらの事業が社会経済生活を正常化する度合いに応じて、彼らは革命過程の発展に警戒しています。その意味で、含蓄的かつ間接的にではあれ、彼らは反革命の貴重な援軍であると言えます。

 

b しかし、この意味で、これらの事業に熱心な人たちにも、不幸にしてしばしばいくつかの真理が隠されています。

 

●このような事業が、大衆の中でこれほどの不穏の源になっている物質的困窮を軽減したり、また時としては解決したりすることがあることに疑いはありません。しかし、革命の精神は第一義的には貧しさから発生するのではありません。その根は道徳的であり、故に宗教的なものです。ですから、彼らの性格が許す限りにおいて、これらの事業は、現代これほど強力な革命のウイルスについて人々に警告することを、特に強調する宗教的、道徳的養成を推進しなければなりません。

 

●聖にして母なる教会は人間の苦悩を軽減することであれば、同情の心でどんなことでも奨励します。教会がそれらを全部解決できないことを知らないわけではありません。それでも教会は聖なる諦観をもって病気、貧困、その他の困窮に処するよう説きます。

 

●疑いもなく、これらの事業は労使間に相互理解の雰囲気を生み出し、従って、階級闘争の縁にある人たちを奪い返す貴重な機会になります。しかし、親切心が常に人間の悪を武装解除するとは限りません。主が在世中になさったあれほどの善行でさえも悪人が主に対して持っていた憎悪をそらすことができませんでした。ですから、革命に対抗する戦いの中で、人はできることなら親切に魂を導くべきではありますが、例えば共産主義などという種々の形態に対して、正しく合法的手段に頼る直接的かつ明白な戦闘が許され、一般的に言えば、欠かすことができないことは明らかです。

 

●上記の事業が、受益者または提携者に、彼らが受けた恩恵に対する感謝、またそれが恩恵でなく正義に基づく行為であれば、そのような行為の原因となった道徳的正しさに対する正当な認識を繰り返し教え込むことが特に要求されます。

 

●上記の段落では、主に労働者について述べてあります。しかし、反革命運動家は体系的にある特定の社会階層を特別扱いしないと指摘されるべきです。彼は、上流階級の人々に、私有財産に対する権利を擁護する熱意を持っていても、自分たちの個人的利益が攻撃される分野だけで革命に反対して、よくあることですが、家庭生活で、海水浴場、プール、その他の娯楽の場で、また知的、芸術的趣味などその他の分野では革命に肩入れするのでは不十分であることに注意を喚起しなければなりません。彼らの模範に倣い、彼らの革命思想を受け入れる労働者階級は、必然的に革命によって「準反革命」のエリートに敵対して利用されることになります。

 

 ●革命に油断させるため、わざと下品な行儀作法とか衣服を採用する貴族階級や中産階級は自分自身に損害をもたらします。自分を低める社会的権威はその味を失った塩のようなものです。それは捨てられて、人々から踏みつけられる外には何の役にも立ちません。あざけり笑う大衆は大抵の場合そうするでしょう。

 

●上流階級は、自分たちの地位を威厳と活力でもって維持しながらも、他の階級の人々たちと率直かつ善意に満ちた接触を保つべきです。距離を置いて実践する愛徳と正義は異なる社会階級の間に真にキリスト教的な愛のきずなを確立するために不適切です。

 

●特に、財産を所有する人たちは、当然、社会的機能も備えた個人の権利としての私有財産権を、共産主義が侵害するのを防止しようとする多くの人たちがいるとすれば、それは、神がそれを望み、それが自然法に本質的に基づいているからであるということを記憶に止めるべきです。さて、この原則は資本家だけでなく労働者の財産についても言えることです。従って、反共産主義の闘争の裏にあるその同じ原則は、突き詰めて言えば、資本家には、労働者とその家族の必要に応じた正当な賃金に対する彼らの権利を認めさせるはずです。反革命は資本家だけでなく労働者の財産も擁護することを強調するために、このことを思い起こすことが肝要です。その闘争は特定のグループとか階級のためではなく、原則のためなのです。

 

B 共産主義に対抗する戦い

 

さて、ここでその主な目的が、社会秩序の建設でなく、共産主義に対する闘争である組織について考察することにしましょう。本書ですでに説明した理由ために、この種の組織には正当性があり、しばしば欠かすことができないと考えられます。もちろんこう言うとき、著者はこの種の組織がある国で犯してきたかも知れない乱用と反革命を同一視するつもりはありません。

 

それにもかかわらず、このような組織の反革命運動の効果は、もしその成員が自分たちの専門とする活動を続けながらも、一定の本質的真理を忘れないようにしていれば、さらに増進すると信じます。

 

●共産主義に対する反駁は知的でなければなりません。キャッチフレーズがどれほど気が利いて、適切なものであっても、その繰り返しだけでは不十分です。

 

●この反駁は、それが文化的雰囲気の中でなされるときは、共産主義の究極的教義の基本に向けられなければなりません。ちょうど教会がカトリック文明とカトリック文化のすべての原則を啓示と道徳法から導き出すように、その本質的特徴を、人間、社会、国家、歴史、文化、その他に関する独特な概念から導き出す哲学の一学派として、指摘することが重要です。ですから、革命精神に満たされたグループである共産主義と教会の間に妥協などはあり得ません。

 

●いわゆる科学的共産主義は一般には知られていません。そしてマルクス主義は大衆にとって魅力はありません。一般大衆間におけるイデオロギー的反共産主義運動は、しばしば、共産主義に反対することを恥ずかしがる広く見られる精神状態に、その矛先を向けなければなりません。このような精神状態は、富者が消滅すれば貧者もいなくなることになるので、すべての不平等が不正であり、巨大な富だけでなく中規模の富さえも排除されなければならないという、多かれ少なかれ意識的な観念から発生します。これはロマンティックな感傷主義のにおいがする十九世紀の思想を信奉するある社会学派の影響を思わせます。それはしばしば、反共産主義であると主張しながら社会主義を名乗る考え方の源泉になります。

 

西欧社会でますます強力になりつつあるこの考え方は、マルクス主義的教化自体よりはるかに危険が大きいのです。それは鉄のカーテンのこちら側の諸国が共産主義共和国に成り下がってしまうまでに、じわじわと私たちに譲歩を重ねさせてしまいます。経済的人類平等主義と政府統制に走る傾向のあるこのような譲歩の積み重ねは今や随所に見られるようになりました。私企業はますます制限されています。相続税の重みはまるで大蔵省が主相続人であるかのようです。政府が為替相場、輸出入に干渉すれば、企業、通商、銀行は政府に頼るようになります。政府は賃金、家賃、価格、その他すべてに干渉します。それは企業、銀行、大学、新聞、ラジオ放送局、テレビのチャンネル、その他を所有します。人類平等主義的国家統制がこのように経済を変化させると、不道徳と自由主義は家庭を破壊し、いわゆる自由恋愛に道を開きます。

 

たとえ、ロシアとか中国が政治的大変動に巻き込まれてしまったとしても、はっきりとこのような考え方に対して戦わなければ、西欧社会は五十年から百年の中に共産主義に飲み込まれてしまうでしょう。

 

●政権が教会に完全な自由と完全な支持を与えたとしても、教会はすべての資産が集団的に所有されるような社会機構を正当なものとして受け入れることができないほど、私有財産への権利は神聖なものです。

 

2 キリスト教世界と全世界的共和国

 

普遍的共和国に反対はしても、反革命はキリスト教世界の解体と国際的生活の世俗化によってつくり出された不安定で無機的な状態にも反対します。

 

各国の完全な主権は、一つの巨大な霊的家族として集められて教会の中で生きる人々が、国際的レベルで自分たちの利害の衝突を解決するために、深くキリスト教精神に鼓吹され、またできることなら聖座の代表者の臨席を得て、団体を構成することを妨げるものではありません。このような団体はすべての面において共通善のために、また特に、信仰のない人々に対して教会を守ることとか、異教徒または特に共産主義に支配された国々で働く宣教師の保護に関して、カトリック民族の協力も促します。最後に、このような団体は国際関係において秩序を保持するために、カトリックでない諸民族と交渉することができます。 信徒団体が、いろいろな機会にかかわったかも知れない重要な貢献を否定してはなりませんが、反革命は自分たちの世俗主義に隠れている恐るべき欠点に常に注意を喚起し、人々にこれらの団体が普遍的共和国の種子になる危険があることを警告するべきです。

 

 

3 反革命と国家主義

 

この関係で、反革命は文化、習慣、その他どの分野であろうとも、すべて健全な各地方の特色を保持することを重んじるべきです。

 

しかしその国家主義は、他の国に属する事柄を体系的にさげすむこととか、国家主義的価値をキリスト教文化の偉大な宝庫と無関係であるかのように賞揚すること、とかにあるのではありません。

 

反革命がすべての国々のために渇望する理想は、各国特有の価値の維持と各国同士の兄弟的関係を必然的に伴うキリスト教的理想にほかなりません。

 

4 反革命と軍隊主義

 

反革命は軍事力による平和でことが足りるとするものではありません。それは不正な戦争と現代の武装競争を憎みます。

 

しかし、平和が常に勝ち誇るものであるという幻想も持たないので、この追放の地では軍隊というグループも必要であると認め、彼らがそれに値する同情、感謝、賞賛を示すのに吝かであってはなりません。何しろ、彼らは共通善のために生命を賭けて戦う使命を持つ人たちですから。

 

 

1 特に第一部七章2を見よ。

 

2 第二部十二章7を見よ。

 

3 ウィンヌ、The Great Encyclical Letters of Pope Leo XIII、四百八十五~四百八十六ページ、レオ十三世の回勅 "Graves de Communi"、一九〇一年一月十八日を参照。

 

4 マタイ五・十三参照。

 

5 第一部七章3、A、kを見よ。

 

6 第一部十二章を見よ。

 

十二章

 

教会と反革命

 

以上見てきたように、革命は世俗的社会の完全な破壊、道徳秩序の完全な転覆、神の否定に導く無秩序な欲望の爆発から生じます。ですから革命の終局的目的は教会、キリストの神秘体、真理を誤ることなく教える教師、自然法、それ故に世俗社会自体の究極的基礎の守護者の破壊にほかなりません。

 

ですから、私たちは革命が滅ぼそうと欲する神的制度と反革命の関係を調べなくてはなりません。

 

 教会は革命と反革命よりもはるかに高く広い

 

革命と反革命は教会の歴史にとって極めて重要なエピソードです。なぜならそれは西欧教会の棄教と回心そのものであるからです。

 

教会の使命は西欧世界だけでなく、また革命過程の期間にだけ限定されるものでもありません。通過しつつある嵐の中でも、現代教会は誇り高く "Alios ego vidi ventos; alias prospexi animo procellas" (私はこれ以外のの風も見てきたし、これ以外の嵐も知っている)と言うことができるのです。教会は他の場所でも外部から侵入する敵と戦ってきましたし、またこれから世の終わりに至るまで、それ以外の問題や敵に対しても戦うことになるのでしょう。

 

教会の目的は、魂の救いのためにその直接的霊的権力と間接的世俗的権力を行使することです。革命はこの使命の達成を妨げる障壁です。教会にとって、この特定目的に反する闘争は、他にもいろいろある中でも、障壁の次元に限定された一つの手段以上のものではありません。それはもちろん、もっとも重要な手段ではあるかもしれませんが、あくまで手段でしかありません。このように、もし革命が存在しなかったとしても、教会は救霊のために必要なことであればすべて実行するのです。

 

ここで、もし革命と反革命に対応する教会の立場を戦時の国家と比較すれば、もっとはっきり説明できるかもしれません。ハンニバルがローマの門に迫ったとき、彼に対してローマ中にある全勢力が結集しなければなりませんでした。これが最強で勝利をほぼ手中にしている敵に対する重要な対応でした。それはローマをハンニバルに対するただの反応に引きずりおろしたでしょうか?だれもそんなことを信じません。

 

同様に、教会がひたすら反革命であるとするのも間違っています。

 

この点に関して、反革命はキリストの花嫁を救うためにのみあるのではないことも念頭に置かねばなりません。教会創立者の約束に支持されてはいても、教会が生存するために人間が必要なのではありません。その反対に、教会が反革命に生命を与えます。反革命は教会無しに存立できませんし、また考えられもしません。

 

反革命は革命によって救いを危うくされている多くの魂の救いと、世俗社会を脅かす崩壊の防止に貢献することを欲します。そのために、反革命は自分が教会を救っているなどとむなしく思い込むことなく、教会に頼り、教会に謙遜に仕えなければなりません。

 

2 革命を打ち砕くことは教会にとって大いなる利益

 

もし革命が存在すれば、そしてもし革命が革命であれば、それを打ち砕くことは教会の使命の範囲内にあります。それは救霊のためであり、神のより大いなる栄光のために特別な重要性を帯びています。

 

3 教会は根本的に反革命勢力

 

革命という言葉をここで使われている意味で考察すれば、教会が根本的に反革命勢力であるということは、以上述べてきた事柄の当然の帰結であります。その反対を述べることは教会がその使命を果たしていないということになります。

 

4 教会は最大の反革命勢力

 

もし、カトリック信徒の数、彼らの一致、この世への影響を考慮すれば、反革命勢力の中で教会の右に出るものはありません。しかし、この自然的勢力の考慮がたとえ許されるとしても、それは二次的重要性しか持ち得ません。教会の本当の力はそれが主イエス・キリストの神秘体であることから生じます。

 

5 教会は反革命の魂

 

もし反革命が革命の火を消し、信仰に燃え立ち、位階性の秩序を尊敬し、いとも清らかな新しいキリスト教文化を建設する闘争であれば、それは、特に人々の心の中で行動することによって成功するでしょう。このような行動はカトリックの教義を教え、人々にそれを愛させ、実践させる教会に特有なものです。ですから教会は反革命の魂そのものです。

 

6 反革命の理想は教会の高揚

 

これは明らかな命題です。もし革命が教会に対する反対であれば、(その一面だけでなく全体として考えられる)革命を憎み、教会を高揚する理想なしに革命と戦うことは不可能です。

 

7 ある意味で、教会の影響範囲より広い反革命の視界

 

上述したことは、反革命の行動が全世俗社会の再構築を包含するものであることを明らかにする助けになります。革命が全世界にもたらした廃墟を見て「全世界はその基盤から構築し直されねばならない」とピオ十二世はおっしゃいました。

 

さて、世俗社会の反革命による基本的再構築の仕事は、一方では教会の教えから霊感を得るものでなければならず、また他方世俗の秩序に属する具体的、実践的な無数の側面を含んでいます。そしてこの側面で反革命は、常に教導職とその間接的権威にかかわるすべての事柄において教会と密接に結ばれつつも、教会の境界線外に踏み出します。

 

8 カトリック信者であれば反革命であるべきか

 

使徒である限りカトリック信者は反革命運動家ですが、そのかかわり方には多様性があります。

 

A 含蓄的反革命運動家

 

彼は含蓄的もしくはあたかも無意識的に反革命運動家であり得ます。これはある病院で働く愛徳修道女会のシスターの場合です。彼女の直接的行為は体の病をいやすことと、魂の善に向けられます。これを彼女は革命の話などまったくしないままに遂行できます。彼女は革命とか反革命とかいう現象にさえ気づかないままこのように特別な条件を生きることすらできるでしょう。しかし、彼女が魂の善のために働けば働くほど、患者に対する革命の影響を除去します。これは含蓄的反革命と言えます。

 

B 反革命的明確さの現代性

 

現代は革命と反革命現象があふれているので、このような状況が要求するように賢明かつ熱心にこういうことを深く理解、かつ直面するのは、健全な現代性のための条件であるように思えます。

 

ですから、現代の使徒はすべて、常に、明白な反革命的意図と傾向を持つことが非常に望ましいと信じます。

 

つまり、仕事の分野が何であれ、真に現代的使徒は自分の分野内での革命を識別し、自分の行為のすべてにおいてそれに対する反革命的影響を発揮できれば、真に現代的使徒はその働きの効果を高めることになると信じます。

 

C 明白な反革命運動家

 

ある人たちが、カトリックもしくはことさらカトリック的でない社会において、明確に反革命的使徒職を遂行する義務を負うことが許されることを否定する人はいないでしょう。彼らはまず革命の精神と戦術、教義を暴露してその存在を宣言し、人々を反革命行動に強く誘います。

 

そうすることによって、彼らは教会の降神術とかプロテスタンティズムなど教会のその他の敵に対する戦いを専門とする人たちの使徒職と同じか(もしくは確かにもっと深い)当然のかつ功徳ある特殊な使徒職に奉仕していることになります。

 

例えば、プロテスタンティズムの諸悪について警告するために、できるだけ多くのカトリックもしくは一般社会に影響を及ぼすことは、知的、効果的反プロテスタント的行動のためには疑いなく合法的であり、必要です。反革命の使徒職に従事するかトリック信徒は類似する方法で事を進めるでしょう。

 

どの分野でもありがちですが、この使徒職においてもあり得る行き過ぎが実際にあったとしても、すでに証明したように "Abusus non tollit usum"、つまり、乱用があっても、それが有用でなくなることはない、という原則を無効にするものではありません。

 

D 使徒職そのものではない反革命行動

 

最後に、厳密な意味では使徒職を実践しない反革命運動家もいます。なぜなら、こういう人たちは革命と戦うために、特定の政党に偏った政治活動とか経済活動などのように、ある一定の分野における活動に専念するからです。疑いなく、これらの活動は非常に大事であり、こういう人たちにも声援を送ることに吝かであってはなりません。

 

9 カトリックアクションと反革命

 

カトリックアクションという表現をピオ十二世が定義した意味、つまり、教導職の指導の下にその使徒職に協力する諸団体の連合という意味でで使用するならば、著者の考えでは、反革命はその宗教的、道徳的側面において健全に現代化されたカトリックアクションプログラムの重要な一部分です。

 

当然、反革命行動は個人の資格で働く個人もしくは複数の人々によって遂行され得ます。しかるべき教会当局の同意があれば、この行動は革命に対抗する特別な使命を受けた宗教的同盟の結成に高められることができます。

 

明らかに、厳密に政党政治的、経済的分野はカトリックアクションの目的の一部ではありません。

 

10 反革命と非カトリック信者

 

反革命は非カトリック者の協力を受けても良いのでしょうか?反革命のプロテスタント、回教、その他は存在するのですか?教会外に本物の反革命は存在しません。しかし、例えばあるプロテスタントとか回教徒が革命の邪悪さを理解し始め、抵抗し始めることは考えられます。このような人たちは革命に反対する障壁、時としては頑強な障壁になることが期待されます。もし彼らが神の恵みに応えるならば、優秀なカトリック信徒、つまり効果的な反革命運動家になることすら可能です。その時までに、彼らは少なくともある程度革命に反対し、それを押し戻すことさえあります。彼らは言葉にある十全かつ真の意味での、反革命運動家ではありません。しかし、教会の指針が要求する注意をもって彼らの協力は受けても良いだけでなく、受けるべきです。

 

カトリック信徒は、聖ピオ十世が賢明に忠告なさったように、諸教派合同の連合に付き物の危険には特に注意を払うべきです。


実に、他の点に触れることなく、この種の連合故に、民が自分たちの信仰と教会の法と掟への正当な従順を危うくする危険は、間違いなく重大です。

 

非カトリック信徒と協力する場合、私たちの最良の使徒職は反革命的傾向のある人たちに重点を置くべきです。

 

 

1 チチェロ、Familiares、十二・二十五・五。

 

2 ピオ十二世、ローマの信徒に宛てた勧告、一九五二年二月十日、Discorsi e radiomessagi、十三巻四百七十一ページ。

 

3 上記の5を見よ。

 

4 聖ピオ十世、回勅 "Singulari quadam"、一九一二年九月二十四日、パリ、ボンヌプレス、七巻二百七十五ページ。