Plinio Corrêa de Oliveira

 

第一部

 

革 命

 

一章 現代人の危機

  Bookmark and Share

現代世界 ― 国家、家庭、経済、文化、その他 ― を揺るがせている数多くの危機は、人間自体を活動の舞台とするただ一つの基本的危機の多様な側面にしかすぎません。つまり、これらの危機は魂のもっとも深い諸問題に根があり、そこから現代人の全人格と彼のすべての活動に広がるのです。

 

二章 

 

現代西欧キリスト信者が直面する危機

 

特 に、これは西欧キリスト信者、つまりヨーロッパ人とその子孫であるカナダ人、アメリカ人、ラテン・アメリカ人、オーストラリア人の危機であると言えましょう。ここでは危機を正にそのようなものとして捕らえましょう。それは西欧の影響が及び、かつ根を下ろしている程度に応じて、他民族にとっても危機であると 言えます。その場合、危機はそれぞれの文化、文明、それら西欧の肯定的または否定的文化、文明との衝突に応じた諸問題と絡み合っています。

 

三章 

 

この危機の特徴

 

国によって、この危機を異なるものにする要素がどれほど深いものであったとしても、そこには常に五つの主な特徴が存在します。

 

1 その普遍性

 

この危機は普遍的です。その程度が多かれ少なかれ、この危機の影響を免れる民族はありません。

 

2 その一体性

 

この危機は一つです。それぞれの国で互いに関係なく肩を並べて発達し、それでもある種の相似があるために相互に関連しているようなものではありません。

 

山 火事は周辺にある何千本もの木が自立的に、平行して燃えるのではありません。その燃焼現象の一体性は、森林という生命統一体に影響を与えます。それだけでなく、炎が広がる大きな力は、異なった木々の無数の炎が混じり合い、増大する熱に由来します。実に、そこで起こるすべてのことは、何千という部分的な火事 を、その一つ一つの偶有性に違いがあったとしても、すべて包み込みつつ、その山火事を一つの出来事にするようにし向けるものです。

 

西 欧キリスト教社会は複数のキリスト教国家を吸収してしまうことなく、それらを超越する一つの全体を構成していました。この生命ある統一体の中で一つの危機が生じ、最終的には、何世紀にもわたって常に互いに絡み合い、また刺激を与えてきた漸進的な地方的危機が組み合わされ、溶け合った熱を通じて全体に影響を 及ぼしました。結果的に、公的にはカトリック国家群からなる家族であったキリスト教社会は、とっくの昔に消えてしまいました。西欧キリスト信者たちはその生き残りにしかすぎません。そして彼らは今この同じ悪の下に苦しんでいます。

 

3 その全体性

 

どの国をとっても、この危機は事態のあり方そのものによって、魂のすべての能力、文化のすべての分野、さらには人間行為のすべての分野で、それが拡散させ、展開する諸問題の深いレベルで起こります。

 

4 その支配主義

 

表面的に見れば、現代の出来事は混乱して説明がつかないように見えます。いろいろな点から見て、そのとおりではあります。

 

しかし、ここで分析しているこの大危機という観点からそれらを考察すると、これら多くの、一見無秩序な勢力の集合の徹底的に終始一貫した、強力な結果を見分けることができます。

 

実に、これら気違いじみた勢力の衝動のもとに、西欧諸国はどこでも同じ形態をとりながら、キリスト教文明とは正反対の方向に徐々に進んでいます。このようにして、この危機は混乱をもたらすすべての勢力を有能かつ従順な臣下として従えた女王のようであります。

 

5 その発展性

 

こ の危機は目を見張らせるような、孤立したエピソードではありません。その反対に、それはすでに五世紀もの間の危機的過程を経てきました。それは、西欧人の魂と文化の奥深くで発生して、十五世紀以来連続的痙攣を引き起こしてきた原因と結果の長い鎖です。この過程には、教会に忍び寄る神秘的な敵についてピオ十 二世が言われた以下の言葉が当てはまります。

 

そ れはどこにでも潜んでいます。それは暴力的で、同時に抜け目がありません。過去何世紀かにわたってそれはキリストの神秘的な組織体の中にある知的、道徳的、社会的一致を崩壊させようとしています。それは恩寵抜きの自然、信仰抜きの理性、そして時としては権威抜きの自由を求めています。それは、キリストは 良いが教会は要らない、後には神は良いがキリストはどうも苦手、ついには恐れることもなく神は死んだとか、神は初めから存在しなかったなどとためらいなく主張して、ますますはっきりと姿を現しつつある「敵」です。そして今や、世界の構造を、人類の上にのしかかる脅威の原因と著者が呼ぶ神抜きの経済、神抜き の法律、神抜きの政治等を基礎にして組み立てようとしています。

 

この過程を、思いがけなく起こった原因と結果の純然たる偶然の帰結と見なしてはなりません。すでにその初めから、この危機にはその可能性を現実化する十分な力を蓄えていました。それには今でも最終的蜂起によってその論理的帰結である究極破壊をもたらすだけの力があります。

 

(文化、社会、経済、民族、地理…的)な種々の外的要因によって影響されたり、条件づけられたりして、それは時として複雑な道をたどります。しかしそれはその悲劇的終末に向かってひたすら進むのみです。

 

A 中世期の崩壊

 

導入で著者はこの過程の主要な特徴を素描しました。ここではそれに少しく肉を付けてみましょう。

 

十 四世紀、キリスト教的ヨーロッパでは考え方の変化が起きました。十五世紀になるとそれはますますはっきりしてきます。地上的快楽に対する渇望は燃える欲望になりました。娯楽はますます頻度を増し、大がかりになり、人々を夢中にさせるようになりました。衣服、作法、言語、文学、美術、気まぐれと感覚の満足に 満たされた生活は、ますます欲望と軟弱をその特徴とするようになりました。徐々に、以前の真剣さとか質素は価値を失うことになります。全体的傾向は陽気、愛想の良さ、お祭り気分へと向かいました。人心は犠牲心、十字架への信心、聖性と永遠の生命へのあこがれから離れました。以前、キリスト教的禁欲主義の至 高表現であった騎士道精神は、欲望によって感傷的なものに成り下がりました。恋愛に関する文学がすべての国々に流行し、過剰なぜいたくとその結果である物欲が全社会階級に蔓延しました。

 

知 識層にあってこの道徳的雰囲気は、これ見よがしの空虚な論争、無定見な詭弁、学識の愚かしいひけらかしのような魂の傲慢を明らかに示すようになりました。それはスコラ哲学が克服したはずの昔の哲学の傾向を褒め称えるようになりました。以前にあった信仰の十全への熱意が冷めるにつれて、これらの傾向は新しい 衣をまとって再登場しました。ローマ法の専門知識を売り物にするローマ法専門家が説く絶対論は、野心満々の君主たちから歓迎されました。この間、国の大小を問わず、フランスの聖ルイ王とかスペインの聖フェルディナンド王の頃のように、王権をしかるべき範囲に収めておこうとする昔の意志は衰えてしまいまし た。

 

B 偽改革とルネッサンス

 

魂のこの新しいあり方は十二,十三世紀にその高みに到達していた事態とは根本的に異なる事態への、認めることを多かれ少なかれ拒んだかもしれませんが、強力な願望を内包していました。

 

古 代への誇張されたそしてしばしば手放しの賛嘆は、この願望を表現する手段となりました。それまでの中世期的伝統との直接的対決を避けるために、人間至上主義とルネッサンスはしばしば教会、超自然、宗教の精神的価値を二次的次元に追いやろうと試みました。同時に、ヨーロッパでは異教の道徳学者に霊感を受けた 人間の原型が、これらの運動によって一つの理想と見なされ始めます。この人間の原型とそれに伴う文化文明は実に、現代の貪欲な、官能的、世俗的、実用主義的人間、そして私たちがその深みにますます引きずり込まれつつある物質文明文化の先駆けでした。キリスト教的ルネッサンスをもたらそうとする努力もありま したたが、それは新異教主義を漸進的勝利に導いた諸要因をその極初期の段階で粉砕できませんでした。

 

ヨーロッパのある地域で、この新異教主義は本物の異端になることなく発達しました。それはかなりの抵抗を受けました。それが魂の奥に確立されたときでさえも、少なくともその初期の段階で、人々に信仰を捨てるよう要求しませんでした。

 

しかし、その他の国では、それは公然と教会を攻撃しました。異教的生き方は傲慢と欲望を満足させますが、正にその傲慢と欲望がプロテスタントを生み出しました。

 

傲 慢は聖書に対する疑いの精神、その勝手な検証と自然的解釈を生みました。それはどの派にあっても普遍教会の専制君主的特徴、つまり教皇制度を否定する教会権威に対する反乱を引き起こしました。また原理主義的派閥に属するあるものたちは教会の寡頭政治とでも呼ばれるべきもの、つまり教会の王子である司教たち をも否定し去りました。さらにあるものたちは、司祭職の位階制的特徴そのものさえも否定し去りました。そのかわりにそれを、司祭職の力の真の保持者であると主張する単なる人々の集団の権威に依拠するものにしてしまいました。

 

精神的次元で、プロテスタントにおける欲望の勝利は、聖職者の独身制度廃止と離婚導入によって確認されました。

 

C フランス革命

 

フランスでは、カトリック信者間にあった人間至上主義とルネッサンスの強い影響が、種々の因果関係も重なり合って止めどなく広がりました。

 

ヤ ンセニズムと、不幸なことに、もっともキリスト教的であったこの王国に十六世紀のプロテスタンティズムが残したその他のパン種によって、信徒の熱意が失せていたこともあって、この影響は、十八世紀にもなると昔からの習慣のほぼ普遍的崩壊、物事の軽く表面的な考え方、非宗教の漸進的勝利に道を開いた地上的生 活の崇拝導入に成功します。

 

教会に対する猜疑心、キリストの神性の否定、理神論、初期の無神論がこの棄教の諸段階です。

 

フ ランス革命は、ルネッサンスの新異教主義とプロテスタンティズムの後継者であり、これら二者に酷似していました。その実りは偽改革とすべての点で対照的でした。それが理神論と無神論に陥る前に設立を試みた立憲教会は、フランス教会をプロテスタントの精神に適応させるということでした。フランス革命が目論ん だ政治的事業は、極端な原理主義プロテスタント諸派が教会組織に関して採用した「改革」を、国家の域でも実施することでしかありませんでした。

 

― 王に対する反乱は教皇に対する反乱に通じます。

 

― 平民が貴族階級に反乱するのは、教会の「平民」である信徒が教会の「貴族」である聖職者に対する反乱に通じます。

 

― 主権在民の肯定は、程度の差はあるものの、ある宗派で見られる信徒による支配に通じます。

 

D 共産主義

 

プロテスタンティズムに由来するある派閥は、自分たちの宗教的傾向を直接、政治の分野に適用して、共和制の精神を培いました。十七世紀サレジオのフランシスコはサヴォイ公にこれらの共和制的傾向について警告しています。他の宗派はもっと急進的でした。彼らは今日使われる意味での共産主義者でなければ、少なくとも前共産主義者と呼ばれるべき人たちでした。

 

フランス革命からバベーフの共産主義運動が起こりました。その後、十九世紀のユートピア的共産主義諸派と、いわゆるマルクスの科学的共産主義が燃えさかる革命精神と共に登場してきます。

 

こ れは全く論理的な帰結ではありませんか? 普通、理神論の実は無神論です。離婚を禁止する壊れやすい障壁に反抗すれば、当然、次の段階は自由恋愛になります。自分より上のものはすべて敵視する傲慢は、ついに最後の不平等つまり富を攻撃しなければなりませんでした。世界共和国、教会または国家の権威の抑圧、 すべての教会の廃止、労働者による中間的独裁制の後に来る国家自体の廃止の夢に酔った革命的過程は、今やそのもっとも新しく、極端な二十世紀の新野蛮主義をもたらしています。

 

E 君主政体、共和制、宗教

 

ど のような誤解も避けるために強調しておきますが、此の論文は共和国が必然的に革命政権であると主張するものではありません。種々の政治形態について、レオ十三世ははっきりと「どのような政権であってもそれが誠実に、そのために社会的権威が設置された目的、つまり、共通善に進んでいる限り良いものである」こ とを宣言なさっています。

 

著者がここで革命的とするのは、それが人間の尊厳と物事の秩序に本質的にそぐわないという原則に則って君主制、貴族政治に反する敵意です。この誤謬はピオ十世が一九一〇年八月二十五日、使徒的書簡 Notre charge apostoliqueで非難されています。この書簡であの偉大にして聖なる教皇は「民主主義だけが完全な正義の支配の始まりとなる」とするルシ ヨンの主張を断罪なさっています。そして続けられます。「これは他により良いものがないので我慢しなければならない無能な政府の範疇に入れられてしまう他の形態の政府にとって侮辱ではなかろうか?」。

 

私たちが研究中の過程に深く根ざしているこの間違いを考慮しなければ、理論上では教皇ピオ六世が最良の形態とされた君主制("praestantioris monarchici regiminis forma")が、由緒ある王家や王朝を転覆さた十九~二十世紀の敵意に満ちた世界的運動の対象となったことの説明がつきません。著者に言わせれば、世界に見られる共和国の大量生産は革命の典型的な実り、その主な側面です。

 

具 体的なそしてその地方独自の諸理由のために、ある人が自分の国のために貴族政治とか君主制でなく民主主義を選択しても、彼が合法的権威の諸権利を尊重する限り、彼を革命運動家であるとすることはできません。しかし、もし彼が革命の万人人類平等主義に動かされて原則的に君主制とか貴族政治を憎悪し、これらの 制度を本質的に不正であり、非人間的であると考えるのであれば、彼は革命運動家と呼ばれることになります。

 

この反君主制、反貴族政的憎悪から伝統を敵とし、エリートを迫害し、生活全般のトーンを低下させ、そんなものが文化とか文明であり得るという条件の下にですが、文化、文明の基調をなす下品な雰囲気を生み出す民衆扇動的民主主義が生まれます。

 

ピオ十世が描写なさった民主主義とこの革命的民主主義の間には、どれほどの距離があることでしょう!

歴 史は、本物の民主主義が栄えるところで、人々の生活にだれも破壊することのできない健全な伝統がしみ通っています。これら諸伝統の代表的旗手はまず、指導層に属する人々、つまり村落とか町、特定の地域とか国全体の雰囲気を決定する男女、もしくは団体です。ここから、どの文明国でも、例えば広く認められた評 判のある学士院のように、その言葉におけるもっとも徹底した意味での貴族的制度の存在と影響が説明できます。貴族と言われる人たちもその内に含まれます。

 

お分かりのように、革命的民主主義の精神は、教会の教えを大事にする民主主義に生命を与える精神と全く異なります。

 

F 革命、反革命、独裁制

 

以上が、革命と政府の形態に関するカトリックの考え方の位置づけに関する考察でした。これを読んだ読者は、独裁制が革命的であるのか反革命的であるのか知りたくなるのではないでしょうか?

 

こ の質問に明確に答えるために ― 多くの混乱し、かつ偏向した答えがありますが ― 一般的意見によれば独裁制に関して無差別に結びつけられているある種の要素を一つ一つ区別する必要があります。理論上の独裁制を今世紀実際に経験した独裁 制と混同して、一般人は独裁制を独裁者が無制限の権力を握って国を治めることであると考えています。ある人たちはそれが国にとって有益であると言い、またある人たちはそれが有害であると言います。どちらにしても、このような状態が独裁制であることに変わりはありません。


さて、この概念には二つの異なる要素があります。

 

― 無制限な国家権力

 

― 一人の人物への国家権力の集中

 

一 般の考えは二番目の要素に集中しますが、少なくとも、もし独裁制を公権が司法秩序を停止して、気の向くままにすべての権利を処置する状態であると認識するのであれば、最初の方こそが基本的要素です。独裁制が王によってしかれ得ることは明らかです。(王による独裁、つまり司法権の停止と王による公権の無制限 な行使は、ある程度まで公権の行使に制限があったフランス革命以前の旧制度とか、ましてや組織的な中世時代の君主制とは区別されなければなりません。)明らかに独裁制は選挙で国民に選ばれた指導者、世襲による貴族、銀行家集団、もしくは大衆によってさえ行使され得ます。

 

それ自体として、指導者とか集団による独裁制は革命的でも反革命的でもありません。それはその成り立ちの事情とか、行為によって革命的であったり反革命的であったりします。政権が一人の指導者の手中にあったとしても、集団の手中にあったとしてもそれは同じです。

 

人民の福祉のために個人の権利の停止とより大きな公権の行使が必要になる状況もあります。故に、独裁制も時としては合法であり得ます。

 

反革命的独裁制 ― ひたすら秩序を目指す独裁制 ― には以下三つの本質的要件がなければなりません。                  

● それは、もし諸権利を停止するのであれば、秩序を乱すためでなく、それを維持するためでなければなりません。秩序が意味するのは単に物質的静穏でなく、物事のそれぞれの目的と価値の大きさに応じたあり方を意味します。ですから、これは、実際上より見かけ上で諸権利を停止することであり、秩序自体と共通善を 無視して、悪の勢力がそれまで乱用していた司法上の保証を一時我慢することであると言えます。このような犠牲はひたすら善人たちの本当の諸権利を保護するものです。

 

● その定義からして、この停止は一時的なものです。それは一刻も早い秩序と静穏の回復を可能にする状況を生み出さなければなりません。独裁制は、それがよいものである限りその存在理由そのものを終結させます。国家生活の種々の部門において、公権の介入はそれぞれの部門が当然の自律のもとに生きることができる ような方法で、実施されなければなりません。このようにして、各家庭は、その活動の範囲を越えることに限って補助的にのみより上の社会的グループの助力を受けながら、その性質上可能であることはすべて自分ですることが許されねばなりません。これらのグループもまた、自分たちが普通備える能力を越えることに 限ってそれらの属する自治体からの補助を受けるべきです。同じことが自治体とそれが属するより広い区域、そしてそれらの区域と国の間にも言えます。

 

●現今、合法的独裁制の本質的目的は反革命でなければなりません。しかしこれは革命を打破するために普通独裁制が必要であるこを意味するのではありません。しかし、ある場合には、それが必要かもしれません。

 

そ れに反して、革命的独裁制は永続することを目的とします。それは本物の諸権利を侵害し、それらを破壊することを目的として社会のすべての分野に浸透します。それがこの破壊を実行するときは、まず家庭生活を分裂させ、真のエリートを迫害します。社会の位階制を転覆させ、大衆の間には理想郷的な夢を育て無秩 序な野望を奨励します。このようにして、社会にある諸グループの真の生活が消滅し、すべては政府に従属するものになります。つまり、それは革命の業にとって好都合です。このような独裁制の典型的な例がヒットラー主義です。

 

この理由で、革命的独裁制は基本的には反・カトリックです。実に真にカトリック的状況の下ではこのような状態が生まれる素地はありません。

 

これは、ある特定の国における革命的独裁制が、教会の好意を求めたことがなかったことを意味するものではありません。しかし、これは教会当局が革命のペースにとって邪魔になり始めると、すぐに公然または隠然の迫害に変容する政治的態度の問題に過ぎません。

 

 

1 一九五二年十月十二日、ピオ十二世がイタリアのカトリックアクション同盟の男性たちに話した教話、Discorsi e radiomessagi di Sua Santità Pio XII。(Vatican: Tipografia Poliglotta Vaticana 、一九五三年) 十四巻三百五十九ページ。

 

 Sainte-Beuve Études des lundis XVIIème siècle Saint François de Sales (Paris: Librarie Garnier、一九二八年) 三百六十四ページ。

 

 レオ十三世、回勅 "Au milieu des sollicitudes"、一八九二年二月十六日、Bonnes Presse、パリ、第三巻百十六ページ。

 

 聖ピオ五世、Notre charge apostolique, Acta Apostolicae Sedis、第二巻六百十八ページ。

 

 ピオ六世、一七九三年六月十七日、枢機卿団への教話、Les Enseignements Pontificaux  La Paix Intérieure des Nations、ソレム修道院パリ、デクレ&八ページ。

 

 ピオ十二世、ローマ貴族への教話、一九四六年一月十六日、Discorsi e radiomessagi、七巻、三百四十ページ。

 

四章

 

革命過程の変化

 

前章での分析から分かるように、革命過程は西欧キリスト信者の無秩序な諸傾向と彼らが許した誤謬が徐々に発達したものです。

 

各段階において、これらの傾向と誤謬には特有の性格があります。そのため革命は歴史の進行と共に変身します。

 

革命の全般的輪郭の中に見られる変身は、より小さなスケールで、その全体的エピソードの中にある各段階に見られます。

 

そ こからして、フランス革命の精神はまず貴族的、教会的仮面と言語を用いたものです。それは宮廷に出没し、王の評議会のメンバーでもありました。後にそれは市民階級化し、君主制と貴族制度の無血廃止、明言こそ避けたものの平和理にカトリック教会抑圧をねらいます。それは可能になり次第、ジャコバン党になり、 血塗れの恐怖政治に変身しました。

 

し かし、ジャコバン派によって冒された行き過ぎは反動の原因となりました。革命はその方向を変え、同じ段階を逆行しました。ジャコバン党からそれは総裁政府(Directoire)になりました。ナポレオンの登場と共に、それは教会にも和解を持ちかけ、亡命貴族たちに帰国の門戸を開きました。ついにはブルボ ン王朝の帰国さえ歓迎するのです。フランス革命は終わったのですが、その革命過程が終わったのではありませんでした。シャルル十世の失墜とルイ・フィリップの登場に伴い、それは再び暴発します。このように、それは順を追う変身を通じて、そしてその成功と失敗さえも利用して、現在の激動状態に移行しました。

 

ですから革命は、前進するためにも、またしばしば必要な戦術的撤退のためにも、変身を利用するのです。

 

い つも生きているこの運動は、時として死んだ振りをしてきました。これがそのもっとも興味深い変身の一つです。表面的に、ある国の状態は全く静穏に見えます。反革命の反動は緩やかになり、眠ってしまいます。しかし、宗教、文化、社会、または経済生活の深みで、革命の発酵は絶えず広がっています。そして、こ の見せかけ上の期間が終わると、しばしば以前より激しい思いもかけない蜂起が起こります。

 

五章

 

傾向、思想、事実に見られる革命の三層

 

1 傾向に見られる革命

 

前述のように、この革命は種々の段階から成り立つ一つの過程です。その究極的起源は、その魂かつ奥深く秘められた推進力となる、ある種の無秩序な傾向の集合です。

 

ですから革命の中には、時間的にある程度重なり合う三つの層を区別することもできます。

 

第一のそしてもっとも深いレベルは、いろいろな傾向の中に見られる危機です。これらの無秩序な傾向はその性質からして実現に向けて闘争します。それらは自分たちに反する物事の全秩序に適応しようとせずに、考え方、あり方、芸術的表現、習慣を直接的に直ちに ― 少なくとも習慣的には ― 思想自体に触れることなく、少しずつ変更しようとします。

 

2 思想に見られる革命

 

その危機はこれらの深い層からイデオロギー的な領域に移行します。これはポール・ブルジェがその名著Le Démon du Midi(真昼の悪魔)の中で「人は考えているようにしか生きられない。そうでなければ人は遅かれ早かれ生きてきたようにしか考えないようになるからだ」と断言していることとも一致しています。これらの深い傾向の無秩序さに動かされて、新しい教義が爆発的に発生してきます。初期にあってこれらの教義は、従来 の教義と調和を保てるように見せかけてそれらとの共存を求めます。しかし一般的に言って、これはすぐに戦争状態になってしまいます。

 

3 出来事に見られる革命

 

次の段階として、この思想の変容は出来事の分野に見られるようになります。ここでは有血無血の手段を問わず、制度、法律、習慣は宗教的、現世的両社会において変貌を遂げます。これが第三の危機であり、出来事の分野の中で起きるものです。

 

 観察

 

A 革命の深さは年代的段階とは一致しない

 

これらの深さは、ある意味では、段階的です。しかし精密に分析してみると、それらの中に見られる種々の革命活動はそのうちに互いに混じり合ってしまい、これらの異なる深さが区別されうる時間的単位の一つであることが分かります。

 

B 革命の三段階に見られる区別

 

これら三つの深さは常に明瞭に区別されているわけではありません。その区別がどの程度できるかはケースによって異なります。

 

C 革命過程は防止不可能ではない

 

こ れら異なる深さを通じての民衆の運動はコントロールできます。第一段階に踏み入ったとしても必ずしも最後まで突き進むこと、また次の深さに陥っていくことを意味しません。その反対に、恩寵の助力を受けた人間の自由意志はどのような危機も乗り越えることができます。革命自体を押しとどめ、征服することさえで きます。

 

革命の以上の側面を描写するのは、医師がある病気の死の瞬間に至るまでの完全な経過を描写したとしても、その病気が不治の病ではないようなものです。

 

 

1 第一部三、五章参照。七章の三も参照。

 

2 ポール・ブルジェ、Le Démon du Midi(真昼の悪魔)(パリ、Librairie Plon、一九一四年)、第二巻三百七十五ページ。

 

六章  革命の進行

 

以 上で革命の進行、つまりその発展的特徴、その変身、人の魂最奥での勃発、その行動による外面化についてある程度の理解が得られたことでしょう。お分かりのように、革命にはそれ自身有り余るほどのダイナミズムがあります。革命の進行についてさらに研究すると、それはさらに深く理解できます。

 

1 革命の推進力

 

A 革命と無秩序な傾向

 

革命が持つ最強の推進力はその乱れた秩序にあります。

 

そのために革命は、荒れ狂う自然の力が人間の抑制に欠ける欲望の具体的イメージであるところから、台風、地震、竜巻などに比較されてきました。

 

B 革命の発作はすでにその種の中に潜む

 

大地震に似て、邪悪な欲望には巨大な力があります ― ひたすら破壊する力が。

 

そ の大爆発の最初の瞬間に、この力にはすでにそれが最悪の極端に走った場合に示すであろう有毒性の胚芽があります。例えば、プロテスタントの最初の不服従の中に共産主義の無政府主義的渇望をすでに含蓄的に見ることができます。彼の明白な宣言の観点からすると、ルーテルはルーテル以上ではないわけですけれど、 すべての傾向、魂のあり方、ルーテル派の測りがたい大爆発は、含蓄的にであってもすでにその中に、間違いなくかつ完全にヴォルテール、ロベスピエール、マルクス、レーニンの精神を内包していました。

 

C 革命は自分自身の主張を駄目にする

 

こ れらの無秩序な諸傾向は、むずがゆさとか悪徳のように広がります。満足すればするほどひどくなるというものです。これらの傾向に必ず伴うのが道徳の危機、異端、革命です。その一つ一つはさらにそのような傾向を助長します。そして後者は類比的運動によって新しい危機、新しい誤謬、新しい革命を生み出します。 ですから、今、読者もなぜ今日の世界がこれほど極端に神を恐れず、不道徳であるか、どうしようもなく無秩序で不和であるかお分かりでしょう。

 

2 革命に見られる見かけ上の間隔

 

ことさらに静かな時期の存在があると、つい革命は終わったかと思いがちです。そこからして、革命の過程は連続的でなく、従って一つではないように見えます。


しかし、これらの静かな時期は革命の一つの変容でしかありません。合間と思い込まれている ― 見かけ上静かな時期は通常、革命が静かに深く発酵していた時期でした。例えば、フランスの王政復古(一八一四~一八三〇年)の時期がそれにあたります。

 

3 洗練から洗練への進化

 

以上見てきたところから、革命の一つ一つの段階は、それぞれの前の段階がより洗練されたものにほかなりません。自然主義的ヒューマニズムとプロテスタンティズムはフランス革命によって洗練されました。そしてフランス革命は現代のボルシェヴィズムの大きな革命的過程によってさらに洗練されました。

 

事実、重力による加速度に似たクレッシェンドに動かされ、自分自身が達成した実績に興奮する無秩序な欲望はますます加速を早めます。そのような進化の下に誤謬は誤謬を産み、革命はさらなる革命へと道を開きます。

 

4 革命の調和ある速度

 

この革命の過程は二つの異なる速度で実現します。一つは急速ですが、一般的に短期的には失敗することになります。もう一つは速度こそそれほどないものの、通常成功しています。

 

A 急進的進化

 

例えば、共産主義以前にあった再洗礼派の運動はいろいろな面で、偽革命のすべてもしくはほぼすべての精神と傾向を直接採用しましたが、結果は失敗でした。

 

B 緩慢な進化

 

プロテスタントのもっと節度ある動きは四世紀もかけて、緩慢に、ダイナミズムと不活発の段階を経る洗練に洗練を重ねて、上記の極点に向かって西側世界の進化を何らかの形で漸次的に助けてきました。

 

C これら二つの速度間の調和

 

革 命の進行におけるこれら二つの速度の役割は研究する価値があります。急進的運動は革命の役に立っていないと思われるかもしれませんが、実際、そうではありません。これら極端主義の爆発は水準を高め、ついには少しずつそれに近づいてしまう中間層を引きつけ、極端な過激派が唱道する固定目標を生み出します。こ のようにして、社会主義は共産主義を毛嫌いするように見えても、人々は心の底でそれを賞賛し、それに引き寄せられるのです。

 

そ れ以前に、同じことがフランス革命の最後の炎が燃え上がった際の共産主義者バベフと彼の取り巻き連中について言えるでしょう。彼らは鎮圧されてしまいましたが、社会は少しずつではあっても彼らが望んだ方向に動き始めるのです。ですから、極端主義者たちの失敗は単に見かけ上のものに過ぎません。彼らは、間接 的にではあっても強力に革命の進歩に役立ちます。なぜかと言えば、それはふらちで、腹立たしい怪物である自分たちの革命を実現するために、「用心深いものたち」とか「中庸派」とか平均層に属する多数の人間を少しずつ取り込んでしまうからです。

 

5 反対への反論

 

以上の概念を考慮した今、ここまで適切に分析することができなかったいくつかの反対に反論することができます。

 

A 緩慢な革命運動家と「準反革命運動家」

 

急 速な進行のリズムに従ってきた人と、緩慢な進行のリズムに従ってゆっくりと革命運動家になりつつある人の違いは何でしょうか? 革命過程が前者の中で始まったのであれば、それほどの抵抗は受けなかったでしょう。徳と真理は彼の魂の極表面にしかありませんでしたから、彼の場合、革命過程は火花がありさえす れば燃え出す枯れ木のようでした。その反対に、この過程が緩慢に起こるとき、それは少なくとも革命が部分的には緑が残った薪に出合ったようなものでした。つまり、それは革命的精神から来る行動に敵対する強力な真理や徳に遭遇しているのです。このような状況にある魂は革命と秩序という二つの相反する原則に よって引き裂かれることになります。

 

これら二原則の共存は、非常に幅のある状況を生み出すかもしれません。

 

a 緩慢な革命運動家は革命に身を任せてしまいます。抵抗するとしてもそれは行動を伴わない抵抗でしかありません。

 

b  どこかに反革命的「固まり」のある、緩慢な革命運動家も同じく革命に身を任せますが、ある特定の点で抵抗を示します。ですから、例えば、彼は貴族趣味を捨てきれないという点以外のあらゆる点で、社会主義者であるかもしれません。場合にもよりますが、こういう人は社会主義の下品さを攻撃することさえありかね ません。これは明らかに一つの抵抗運動ですが、それは習慣とか印象などから成り立つ細かい問題における抵抗にしか過ぎません。それは原則に立ち返りません。正にそのために、これは余り問題にならない抵抗にしか過ぎませんし、その個人の死と共に消えてしまいます。もしそれが社会的集団の中で起きるとする と、革命は遅かれ早かれ容赦なく暴力もしくは説得によって一世代または数世代の中にそのような抵抗を解体してしまいます。

 

c 「準反革命運動家」は 以上と異なりますが、その差異は彼の中では「凝固」過程がもっと強く基本的原則、と言ってももちろんすべてではなく、いくつかの原則に振り向けられています。彼の中にあって革命に対する反動はもっと根強く、活発です。それは惰性以上の抵抗です。少なくとも理論上で、彼が根っからの反革命運動家になるのは容 易です。革命に行き過ぎがあろうものなら、彼は完全な変身を遂げます。彼の中にある良い諸傾向の具体化は揺るぎない確信に変容します。しかし、幸運に恵まれてその変容を達成できるまで「準革命運動家」は反革命の兵士とは見なされません。

 

緩 慢な速度の革命運動家と「準反革命運動家」が、革命による征服をいとも簡単に受け入れるのは、彼らの典型的日和見主義のせいです。例えば、政教一致のテーゼを肯定していても実際には一致していない国で、こういう人たちは適切な条件の下に二者の一致を最終的に復旧する努力を何らすることなく毎日を生きていま す。

 

B プロテスタント君主制とカトリック共和国

 

この論文への反論として以下が言えるでしょう。もし、世界的共和制運動がプロテスタント精神の実りであるのなら、今日の世界にあって多くのプロテスタント諸国が君主制を保っているのに、カトリックの王はなぜたった一人だけなのでしょう?

 

答 は簡単です。イギリス、オランダ、北欧諸国では一連の歴史的、心理的、その他の理由で君主制には親近感があります。革命がそれらの国に導入されたとき、それは君主制に対する感情が「凝固」してしまうのを阻止できませんでした。そのようなわけで、革命が他の分野で浸透しても、これらの国で君主制は頑固に生存 し続けます。「生存」…正にそのとおり。緩慢な死は生存と呼ばれ得ます。単なる見せ物に成り下がっている英国王室とか、首長が終身かつ世襲の地位を占める共和国に変容したその他プロテスタントの王国は静かに苦しんでいます。このまま事態が進行すれば、これらの君主制は沈黙の中に最後を迎えることになるので しょう。

 

この生存には他の理由もあることを否定しませんが、本論の目的に含まれるとても大事なこの要素を強調したいと思います。

 

その反面、ラテン系諸国では外的かつ可視的な規律と、強力で権威ある公権への執着は多くの理由のためにそれほどありません。

 

従って、革命はそれら諸国の中に深く根ざした君主制への執着に遭遇しませんでした。ですから彼らの君主制を廃止するのはいとも簡単でした。しかし、今に至るまでそれには宗教を放棄させるほどの力があったためしがありません。

 

C プロテスタントの禁欲主義

 

本論には、あるプロテスタント教派が行き過ぎと思えるほど禁欲的であるという事実から反論が可能かもしれません。しかし、それではなぜプロテスタンティズムのすべてを生活享楽の希求心が爆発したものとして説明できるのでしょうか?

 

こ こでさえも、反論に答えるのは困難ではありません。革命がある種の環境に浸透したとき、そこで見いだしたのは禁欲主義への強い愛着でした。「凝固」が形成されました。革命は傲慢に関しては全く成功だったにもかかわらず、欲望の面ではそれほどの成功を収めませんでした。そのような環境で、生活の喜びは肉の粗 野な快楽からより傲慢の密やかな快楽からきます。非常なる傲慢によって強められた禁欲主義が、欲望には行き過ぎるぐらいに反動したのかもしれません。しかしどのように頑固であったとしても、この反動は実を結びません。遅かれ早かれ、支持が無かったり、暴力に訴えたりで、それは革命によって滅ぼされてしまい ます。地球の再生につながる生命の息吹は堅く、冷たく、ミーラのようなピューリタニズムからは生まれません。

 

D 革命の統一戦線

 

このような「凝固」と結晶化は、普通、革命諸勢力間に衝突をもたらします。このように考えるとき、悪の力は互いに分断していて、革命過程が統一されているという著者の思い込みは間違っている、と読者は考えたくなるかもしれません。

 

しかし、そのような考えは幻想にしか過ぎません。偶発的になら少々不一致があっても、本質的な点で彼らに調和があることを示す根深い本能に従って、これらの勢力にはカトリック教会に反対する機会があり次第一致する、という驚くべき能力があります。

 

自分たちの中に善の要素が何もないので、革命勢力は悪に関してのみ驚くほど有能です。それで、彼らはそれぞれ自分たちの立場から教会を攻撃します。教会はまるで大勢の敵軍に包囲された町のようになります。

 

革命勢力の中には教会の教えを信じる振りをしながら、革命精神に魂を売り渡したカトリック信者の存在に言及することは大事です。公然の敵より千倍も危険なこれらの人物は教会を内側から攻撃します。彼らについて、ピオ十世が次のようなことを書いておられます。


この世の子らは光の子らより賢いにもかかわらず、彼らの脅しと暴力は、もしカトリック信者と自称する多くの人々が彼らと協力しなければ、疑いなくそれほど の成功を収めなかったでしょう。そうです。不幸なことに、敵と手に手を取って歩いているように見え、光と闇の間に同盟関係を、正義と不正の間に調和を確立しようと試みる人たちがいます。彼らは霊的なことがらに介入し、市民にもっとも不正な法律を少なくとも我慢するように要求する公権に対して、最悪の諸原則 に基づくいわゆる進歩的なカトリックの教えに従ってこびを示します。人は二人の主人に仕えることができない、という聖書のみ言葉が存在していないかのようではありませんか? 彼らは、おそらく知らない中に敵に味方するだけでなく、断罪された考えを支持しながら誠実さと非難されようもない教えを装い、不用心 な友人をだまして懐柔し、本来なら教会が宣言する誤謬に反発するはずの単純な人たちを誤りに導くので、公然の敵よりもはるかに危険で、有害です。このようにして彼らは人々を分裂させ、一致を失わせ、敵に対して力を合わせるはずの軍隊を弱めてしまいます。

 

6 革命エージェント ― フリーメーソンとその他の秘密結社

 

ここで革命諸勢力の推進力を研究しているので、いまそのエージェントについて触れなければなりません。

 

人々の単なる情熱とか誤謬が、一つの目的つまり革命の勝利達成のためこれほど多様な手段を統合することができるとは信じられません。

 

予 期せぬ出来事に満ちた何世紀もの期間にわたる変転の中で、革命のように終始一貫しかつ連続した過程を生み出すことは、幾世代にもわたる非常に優れた知性と強力な力の持ち主である共謀者群の介入なしには不可能であるように思えます。このような共謀者なしに革命が現今の状態に達成されたと考えるのは、まるで窓 から投げ捨てられた何百という文字が地面に、例えばカルドッチの "Ode to Satan" (悪魔に捧げる叙情詩)のような文芸作品のとおりに並ぶようなものです。

 

これまでのところ、革命諸推進力は比類ない悪知恵の持ち主によって革命過程の実行手段として操作されてきました。

 

一 般的に言って、革命運動としては ― その性質がどんなものであろうとも ― その主張を普及し、その悪巧みを連携させるために初期から現代に至るまでそれに起因するすべてのセクトを挙げることができます。しかし他のセクトが補助機 関として組織づけられるマスター・セクトはフリーメーソンにほかなりません。これは教皇文書、特に、一八八四年四月二十日に出されたレオ十三世の回勅 "Humanum genus" を読めば明らかです。

 

これらの陰謀家、特にフリーメーソンの成功は、彼らの驚くべき組織力と陰謀の能力だけでなく、彼らが自分たちの目的を達成するために、革命の深い本質と ― 政治、社会学、心理学、美術、経済、その他の法則である ― 自然の学問を実に明瞭に理解していることにもよります。

 

このようにして、混乱と破壊のエージェントは自分が持つ能力に頼るだけでなく、自分自身より千倍も強い自然の力を研究して動かす科学者のようです。

 

以上は革命の成功を大まかに説明するだけでなく、反革命の兵士のためには重要な道標になります。

 

 

1 ジョセフ・フスライン神父S・J ・Social Wellsprings: Fourteen Epochal Documents by Pope  Leo XIIIのレオ十三世の回勅 "Quod Apostolici muneris"、一八七八年十二月二十八日(ミルウォーキー、Bruce Publishing Co.、一九四〇年)、十五ページ参照。

 

2 第一部四章を見よ。

 

3 本章1のCを見よ。

 

4 第二部八章2を見よ。

 

5 第一部九章を見よ。

 

6 著者が指しているのはベルギー王。後に、ホアン・カルロス皇太子がスペイン王位に就いた。 ― 編集者

 

7 I Papi e la Gioventú(ローマ、Editrice A.V.E.、一九四四年)三十六ページ、ピオ九世、ミラノの聖アンブローズ・サークル総裁と会員への手紙、一八七三年三月六日。

 

七章

 

革命の本質

 

手短にキリスト教西欧世界の危機を描写し終えたので、次はその分析に入りましょう。

 

1 もっとも徹底した革命

 

前述のように、ここで考察してきたこの危機的過程が革命なのです。

 

A 革命という言葉の意味

 

革命とは合法的政権もしくは秩序を破壊し、その代わりに非合法的政権とか非合法的状況の導入を目指すことです。

 

B 流血革命と無血革命

 

厳 密に言えば、このような意味で革命は無血革命であるかもしれません。現在考察中の革命はあらゆる手段を使って過去に発生してきましたし、これからも発生し続けるでしょう。ある革命は流血の、またあるものは無血の革命です。例えば、今世紀にあった二つの世界大戦は、そのもっとも深い結果という観点から見ると 最大の流血を伴う革命挿話であったと言えましょう。他方、すべてのもしくはほとんどすべての国におけるますます社会主義的立法措置は、もっとも顕著な無血革命の発展であると言えます。

 

C 革命の大きさ

 

革 命はしばしば転覆した合法的権威を、何ら合法的に主張する資格のない統治者で置き換えてきました。しかし、革命がそれだけであると思うと大間違いです。その主な目標は個人または家系のある権利を侵すことではなく、その欲するのものははるかに大きいのです。それは物事のすべての合法的秩序を破壊し、非合法的 状況とすり替えることです。「物事の秩序」では言い尽くせません。革命が根本的に反対の考え方で置き換えることによって廃止しようとしているのは、宇宙観と人間のあり方なのです。

 

D もっとも徹底した革命

 

この意味で、それは単に一つの革命と言うより革命そのものなのです。

 

E もっとも徹底した秩序破壊

 

実 に、破壊の対象になっている秩序は中世期キリスト教世界です。さて、中世期キリスト教世界は、単に多くあるものの中の一つの秩序、また可能であった多くの秩序の中の一つではありませんでした。それは時間空間に固有な状況の中にあって、人々の中に確立されるべきであった唯一の合法的秩序、つまりキリスト教文 明の実現でした。

 

回勅 "Immortale Dei" の中で、レオ十三世は中世期キリスト教世界を以下のように描写しています。


福音の哲学が諸国家を律していた時代がありました。その時期、キリスト教的知恵と神的な徳の影響は諸国の法律、制度、習慣、文明社会のすべての範疇と利害 関係に浸透していました。当時、イエス・キリストの制定による宗教はそれにふさわしい尊敬を受けつつ確固として社会に根を下ろし、諸君主の好意と統治者たちの合法的保護の下に各地で隆盛を極めていました。その当時司祭職と国家は相互に好意を持ち、調和のうちに結ばれていました。このように組織された市民社 会は長く記憶されるに値する期待以上の実りを結びました。どのような敵の策略も数多くの文書に記録されたその実りを滅ぼしたり、おとしめたりすることはできません。

 

十 五世紀に始まった、啓示と自然法の教師である教会の教えにのっとる人と物事のあり方は現代ほぼ破壊され尽くされたと言えましょう。しかし、人間と物事のこのようなあり方こそ最高の秩序でした。現代社会には正に正反対の混乱が浸透しています。ですから、これはもっとも徹底した革命であると言えましょう。

 

疑 いなく、現在の革命には先駆者と前印がありました。例えば、アリウスとモハメッドはルーテルの前印でした。また、時代は異なりますが、空想的社会改良家たちは革命のそれと酷似した日々を夢見ていました。最後に、何度かにわたって、人々またはいくつかのグループは、革命の怪物にも類似した事態を確立しようと しました。

 

し かし、これらすべての夢とか前印は、今私たちがその過程を生きている革命と比較すると全く比べものになりません。その急進性、普遍性、能力によって革命はかつて見られないほど深く、広く浸透しています。物事を考える多くの人たちは現代が反キリストの時代ではなかろうかと考えます。実に、ヨハネ二十三世の言 葉から判断すると、そういう時代はあまり遠くないように見えます。


さらに、悪の霊が神の国を滅ぼすためにあらゆる手段を探し求めているこの恐ろしい時代にあって、もしあなたたちの町が五十年前の地震による破壊よりも、は るかに大きい損害を被ることを望まないのであれば、それを守るために最大限の努力を惜しんではなりません。ひとたび教会から離れたり、現代の誤ったイデオロギーの奴隷になったりする魂を生き返らせるのが、そんな努力よりどれほど困難であるか考えてご覧なさい。

 

2 革命とその合法性

 

A 最高の合法性

 

一般的に言って、合法性の概念は王朝とか政府の文脈の中で考えられます。レオ十三世の回勅 "Au milieu des sollicitudes" の教えを心に留めたとしても、王朝と政府の合法性の問題を無視することはできません。なぜなら、それは正しい良心を持つ人ならだれでも最大限の注意を払わなければならない、非常に重要な道徳上の問題だからです。

 

しかし、合法性の概念はそれ以外の問題にも当てはまります。

 

す べての王室と地上の権力の模範と根元である、主イエス・キリストの王権が実現される、特徴ある、より高い合法性も存在します。合法的統治者のために戦うことは重大な義務でさえあります。しかし、権威者たちの合法性をそれ自身において善であり、優れていると見るだけでなく、さらには教会の教えに基づくすべて の物事のあり方を通して実現されるさらにより高い善、つまり全社会の秩序、すべての人間的制度と環境の合法性を実現するための手段として見る必要があります。

 

 

B カトリック文化、文明

 

故 に、反革命の理想はカトリック文化、文明を復興、推進することにあります。このテーマは、カトリック文化、文明を定義しなければ、十分に系統立てて説明したことになりません。文化、文明はいろいろな意味で使われることは承知しています。明らかに、ここで用語法論に深入りするつもりはありません。ここでは単 に特定の現実を示すための比較的正確な符丁としてこれらの言葉を用いることにしましょう。著者はここで用語法論について詳述するより、これらの現実について正しい見方を提供したいのです。

 

聖寵の状態にある魂は、多かれ少なかれすべての徳を備えています。信仰に照らされて、そういう魂は宇宙に関する唯一の真の展望を形成する要素を備えています。

 

カ トリック文化の基本的要素は、教会の教えに基づく宇宙観です。この文化は学識の所有、つまりこのような完成に必要な情報の所有だけでなく、この情報をカトリックの教えに基づいて分析し、調和させることです。この文化は神学、哲学、科学の分野だけに制限されるのでなく、人間的知識のすべてに及びます。それは 芸術にも反映され、生活のすべての側面に浸透する諸価値の肯定を意味します。

 

カトリック文明はすべての人間関係、人間的制度、そして教会の教えに基づく国家体系です。

 

C カトリック文明の神聖な特徴

 

それは、このような物事の秩序が基本的に聖であり、聖なる教会の権威、特に霊的事柄に関する直接的権威、世俗的事柄に関することが魂の救いに関する限りにおいて間接的権威がある教皇の権威の承認を必然的に含むことを、含蓄的に意味します。

 

実に、社会と国家の目的は共通して徳の高い生活です。さて、人間が実践することを期待される徳はキリスト教的徳であり、その中でも第一は神の愛です。ですから、社会と国家には聖なる目的があると言えます。

 

疑いなく、魂の救いを容易にする適切な手段を所有するのは教会です。しかし社会と国家も同じ目的のために間接的手段を持ち、それはより高い動力因に動かされると、自分だけの力では不可能だった良い結果を生み出すことになります。

 

D 最高の文化、文明

 

以 上から、カトリック文化、文明が最高の文化、文明であると推論するのは容易です。忘れてならないのは、それがカトリック国の国民によってのみ実現され得るという点です。実に、人は自分自身の理性によって自然法の原則を知ることができても、教会の教導職に導かれない民族はそのすべてに関する知識を永続的に保 持することができません。そのために、真の宗教を持たない人たちは、十戒のすべての掟を永続的に実践することはできません。このような条件の下で、そして神の掟の知識と遵守なしにキリスト教的秩序は存在し得ないので、最高の文化、文明は聖なるカトリック教会の中だけにしか存在し得ません。実に聖ピオ十世が言っているように文化は、

 

そ れがより純粋にキリスト教的であればあるほど、真理であり、永続的であり、貴重な実りを豊かにもたらします。それがキリスト教的理想から離れれば離れるほど、社会にとって不幸なことですが、ますます堕落します。このように、物事の内在的性質に従って、教会は実にキリスト教文明の守護者、保護者にもなりま す。10

 

E もっとも徹底した非合法性

 

もし、これが秩序と合法性であれば、その秩序の正反対である革命が何であるかも一目瞭然です。それはもっとも徹底した無秩序であり非合法性です。

 

3 革命に見られる傲慢、欲望、形而上学的価値

 

形而上学的価値であるとされる二つの観念、つまり絶対的平等と完全な自由は革命精神をよく表現しています。それに火を付けるのが傲慢と欲望の二つです。

 

著 者が本論でどのような意味で欲望を理解しているか説明しなければなりません。手短に言えば、霊的著作の著者の用法に従って革命の推進力としての欲望に言及するとき、それが意味するのは秩序のない欲望です。そして、日常の言葉と同様に、秩序のない欲望の中に三つの欲望つまり肉の欲、目の欲、生活のおごりの結 果として人間の中にあるすべての罪への衝動を含みます。11

 

A 傲慢と人類平等主義

 

おごる人は他者の権威の下にいるとき、まずは、自分が重荷に感じるくびきを憎みます。

 

次の段階として、おごる人は一般的にすべての権威とくびきを、そしてそれ以上に抽象的に考えられた権威の原則自体を憎みます。

 

彼はすべての権威を憎むので、どのような種類のものであっても自分より優れたものを憎みます。そのすべての中に神に対する心からの憎悪があります。12

 

すべての不平等に対するこの憎悪によって、高位にある人々が自分以外の権威を受け入れることを避けようとして、地位を危うくしたり、失ったりすることすらあります。

 

さらに憎悪が高まるとき、傲慢は人をして無政府状態を目的にして戦わせ、たとえ自分に最高権力が与えられるとしても、それを拒否させたりします。なぜかと言えば、そのような権力の存在自体が含蓄的に ― おごる人も含めて ― すべての人がその下にあり得る権威の原則をあかしするものだからです。

 

傲慢は、ですから、最高に急進的で完全な人類平等主義に行き着き得ます。

 

この急進的そして形而上学的人類平等主義には種々の側面があります。

 

a 人間と神との平等。汎神論、内在論、宗教を装うもろもろの秘教は人と神を対等の立場に置き、人に神的特徴を与えようとします。無神論者も人類平等主義者です。なぜなら人間が神であるとする愚かしさを避けるために、神が存在しないと宣言する愚かしさに陥るからです。世俗主義も一種の無神論ですから人類平等主 義になります。その主張は、神の存在を確かに知ることが不可能であるから、この世界で人はあたかも神が存在しないかのように振る舞うべきであるというのです。つまり人は神を引きずりおろしてしまったかのように振る舞うべきであるというのです。

 

b 教会内の人類平等主義。叙階による権能を持つ司祭職、教導職、裁治権、もしくは少なくとも位階的階級のある司祭制度の廃止されるべきです。

 

c  種々の宗教間の平等。宗教によるすべての差別は人間の基本的平等に反するので避けるべきです。それ故に異なる宗教は厳格に平等な扱いを受けるべきです。一つの宗教が真理であり、他がそうでないと主張するのは福音的謙遜に反し、人の心を閉ざしてしまうので賢明でなく、自分が他より優れていると主張することに なります。

 

d  政治の分野における平等。統治者と被統治者間にある不平等の廃止、または少なくとも減少。権力は神からでなく、大衆に由来します。大衆が命令すると政府は従わなければなりません。君主制と貴族政治は反人類平等主義的であるので本質的に邪悪な政権として追放されねばなりません。民主主義だけが合法的であり、 正しく、福音的なのです。13

e 社会構成における平等。階級、特に世襲制度の階級、社会が指向する方向と文化、習慣の一般的風潮への貴族的影響の停止。知的な仕事が肉体労働に比較して優れていることに由来する自然的位階制は、両者間の差別を克服することによって消滅します。

 

f 個人と国家の間にある中間組織とどの社会的団体にもある特権の廃止。革命が王たちの絶対主義をどれほど嫌っても、それは中間組織と中世期的、構造上の君主制をさらに憎むのです。それは君主制の絶対主義が、最高位の階級にあるものさえも含めてすべての臣下をより下の持ち場での相互的平等の水準におとしめてし まうからです。それは正に社会主義社会で大都市に人口が集中して最高調に達している個人の絶滅、無名化を予告するものだからです。廃止されるべき中間グループの筆頭に挙げられるのが家庭です。革命はそれを絶滅するまでは、まずあらゆる手段を使ってその価値をおとしめ、ずたずたにし、けなすのです。

 

g 経済的平等。だれも何も所有しません。すべては集団のものです。個人が受け取るその労働に見合った報酬、職業選択の自由もろとも、私有財産は廃止されます。

 

h 存在の外面的様相の平等。多様性は容易に身分の不平等になります。だから衣服、住居、家財道具、習慣、その他の差は可能な限り廃止されます。

 

i  個人の平等。プロパガンダは個人を、それぞれの特異性とその命さえも奪うことによっていわば規格化します。男女間にある心理、身のこなしの差異さえも可能な限り奪われてしまいがちです。そのために、異なっていても調和のある個人から成立し、共通するもので結ばれる人々、本質的に人々の大家族は消えてしま います。その代わりに空虚で、集団的、奴隷的魂の大衆が発生するのです。14

 

j すべての社会的関係の平等。大人と子供、雇用者と被雇用者、教師と学生、夫と妻、両親と子供たち、その他。

 

k  国際秩序における平等。国家は一定の領土に対して完全な主権を行使する独立した民族からなります。故に、統治権は公の法律によれば財産のイメージがあります。その特徴で他の民族と区別される民族の概念と主権の概念を受け入れてしまったら、その途端、能力、徳、人口、その他の不平等を受け入れることになりま す。ですから基本的に人類平等主義である革命はすべての人種、民族、国々を一つの人種、民族、国にまとめることを夢見るのです。15

 

l 国の中にある様々な地方の平等。同じ理由で、そして類似した手段を使用して、革命は一つの国の中での ― 政治的、文化的、その他の ― 健全な地方主義を廃止したがります。

 

m 人類平等主義と神への憎悪。聖トマス・アクイナスは、被造物の多様性とその位階的位付けは、創造主の完全性がそのためにすべての被造物の中にさらに美しく輝くので、それ自体において良いものである、と教えます。16 聖人はさらに摂理は天使たちの間にさえ、17また地上の楽園そしてこの追放の地でも、人間の間に不平等を創造なさったと言います。18 ですから、原則としてすべての不平等を憎むことは、形而上学的に創造主と被造物の間にある相似のすばらしさに反対することになります。それは神を憎むことにほかなりません。

 

n 不平等への制限。もちろん、このような教条的説明から、不平等がいつでも、そして必ず良いという結論にはなりません。

 

  すべての人間はその本質においては同じです。異なるのはその偶有性においてだけです。単に人間であるという事実に起因する諸権利、つまり生命、良い評判、十分な生活条件(それ故に労働)、私有財産、結婚、そして特に真の宗教の実践の権利はすべての人にとって同じです。これらの権利を脅かす不平等は摂理の定 めた秩序に反しています。しかし、これらの制限の範囲内で徳、才能、美貌、体力、家族、伝統、その他から偶有的に発生する不平等は正しいものであり、宇宙の秩序にかなっています。19

 

B 欲望と自由主義

 

あらゆる種類の人類平等主義を生み出す傲慢に並んで、広い意味での欲望は自由主義の原因です。これら傲慢と欲望の情けない深みの底に、著者は実に多くの観点から相互に矛盾する平等と自由という革命の二つの形而上学的原則の合流点を見るのです。

 

a  魂の中の位階制。すべての可視、不可視の被造物に位階的印を与えた神は、人間の魂にも同じことをなさいました。知性は意志を指導し、また後者は感覚を治めるべきです。原罪の結果、人の中で感覚の欲求と理性に導かれる意志の間には常に摩擦が存在します。「私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦いま す」20

 

しかし、とことん反逆を企てる臣下を統治する君主に成り下がったとしても、意志には…神の恩寵に抵抗しないという条件の下に…常に勝利を収める手段があります。21

 

b  魂の中の人類平等主義。革命過程は平均化の達成ですが、それはしばしば、従わなければならない人々から統治機能を強奪すること以外の何ものでもありませんでした。この過程が魂の諸機能の関係に及ぶとき、それは抑制不在の欲望の嘆かわしい独裁に、弱り切って傷だらけの意志と盲目になった知性、特に慎みと恥じ らいの感情を、嵐にも似た欲望の支配に委ねることになってしまいます。

 

革命が絶対的自由を形而上学的原則として主張するとき、その目的は最悪の欲望ともっとも有害な誤謬の支配を正当化することです。

 

c  人類平等主義と自由主義。抑制のない欲望の要求するままに考え、感じ、何でもする権利 ― この倒錯が自由主義の本質です。これはさらに極端な自由主義の主張にはっきりと現れます。それらを分析すれば、自由主義は善に向かう自由に興味を示さない ないことが分かります。自由主義は悪への自由になら大いに興味を持ちます。一旦権力を手に入れると、自由主義は直ちに、おそらくは大喜びで、可能な限り善の自由を束縛しようとします。その反面、種々のやり方で悪の自由なら保護、奨励、推進しようとします。ですから、それは善を全面的に支持し、悪を可能な限 り制限するカトリック文明とは反対の立場にあります。

 

さて、悪をする自由は正に人が内面的に「革命運動家」である限り、つまり、彼が知性と意志を統治するはずの欲望の独裁に同意する限り、与えられる自由です。

 

以上でお分かりのように、自由主義と人類平等主義は同じ木になる実です。

 

ついでながら、傲慢はどのような形の権威に対しても憎悪を生み出す際、22明らかに進歩的態度をもたらします。そしてこの意味で、傲慢は自由主義の中で積極的役割を演じる要因であると考えられなければなりません。しかし革命は、 人々の能力とそれを適用する度合いが異なり、放置すれば自由が不平等になることに気付いたとき、不平等に対する憎悪から自由を犠牲にすることを選択しました。これはその過程の中にあって一つの通過点に過ぎない社会主義的段階の起こりとなりました。革命の究極目的は、完全な自由と完全な平等が共存するような 物事の情態を確立することです。

 

こ のように、歴史的に見ると、社会主義運動は自由主義の洗練されたものに過ぎません。根っからの自由主義者に社会主義を受け入れさせるのは、正に、そのもとで(時としては禁欲主義の名の下に)妬み、怠惰、欲望のような最悪でもっとも暴力的欲望の組織的遂行が奨励されても、多くの良いこと、もしくは少なくとも 無害なことが独裁的に禁止されているからです。反面、自由主義者は社会主義政権における権力の拡大が、組織の論理の中では最終的無政府状態という、彼らが心から欲する目標を達成するための手段に過ぎないことを見抜きます。

 

で すから、ある種の子供っぽい、時代遅れの自由主義者たちと社会主義者たちの間に起こる衝突の数々は革命過程における表面的出来事であるに過ぎません。それは革命の深い論理とか、よく見れば同時に社会主義でもあり、自由主義でもある方向への情け容赦ない進展にとってことさら邪魔にならない誤解にしか過ぎませ ん。

 

d  ロックンロール世代。魂の中で起こる革命の過程は、ここで述べるように、最近の世代、特にロックンロールの催眠術にかかった今日の十代の若者たちの中に、知性の制御または意志の効果的参与がない本能的反応の自発行動と、現実の系統立った分析でなく幻想と感情の優先を特徴とする思考法を生み出しました。おお むね、これは論理の役割と意志の真の形成を事実上抹殺してしまう教育の実りです。

 

e  人類平等主義、自由主義、無政府主義。無秩序な欲望が暴走すれば、この順序で一方では規制と法律を他方では不平等を憎むようになりります。この暴走はこのようにして、階級とか政府のない社会に住む進化した人類の完全な秩序、不平等などとは無縁なもっとも完全な自由を謳歌できるマルクス主義の無政府主義が提 唱する理想郷的概念に至ります。お分かりのように、この理想は考えられるかぎりもっとも自由であると同時にもっとも平等です。

 

実に、マルクス主義の無政府主義的理想郷は、人間人格が高度に進歩して、国家も政府も存在しない社会でそれが自由に発達できる状態なのです。

 

政 府も存在しないのに完全な秩序の中に生きることになるこの社会の中で、経済的生産は組織化され、高度に発展することになり、知的労働と肉体労働の違いは過去のものになるでしょう。まだ決定されてはいないけれど、階級を形成しないような選択的過程が経済の方向をもっとも才能のある人々の手に委ねることになる でしょう。

 

以上が不平等の唯一そして微々たる残り物になるでしょう。しかし、この無政府主義的共産主義社会は歴史の最終段階ではありませんから、その残り物さえもその後の発展では一掃されると想像するのは間違いではないようです。

 

 

5 レオ十三世、回勅 "Immortale Dei"、一八八五年十一月一日、パリ、Bonnes Presse、二巻三十九ページ。

 

6 ヨハネ二十三世、一九五八年十二月二十八日、メッシーナ市を破壊した地震の五十周年記念日に同市民に宛てられたラジオ放送(週刊フランス語版)、一九五九年一月二十三日。

 

7 聖トマス・アクイナス、De Regimine Principium, I, 14-15参照。

 

8 第一ヴァティカン公会議第三会期、二章(デンツィンガー千八百七十六)参照。

 

9 トレント公会議第六会期、二章(デンツィンガー八百十二)参照。

 

10 聖ピオ十世、回勅 "Il fermo proposito"、一九〇五年六月十一日、パリ、Bonne Presse、第二巻九十二ページ。

 

11 1ヨハネ二・十六参照。

 

12 本章mを見よ。

 

13 聖ピオ十世、使徒的書簡Notre charge apostolique、一九一〇年八月二十五日、American Catholic Quarterly Review、三十五巻(一九一〇年十月)、七百ページ参照。

 

14 ヴィンセント・A・ワイゼルマンス、Major Addresses of Pope Pius XII (St. Paul: North Central Publishing Co.、一九六一年)第二巻八十一~八十二ページのピオ十二世、クリスマスのラジオ放送、一九四四年参照。

 

15 第一部十一章3を見よ。

 

16 Summa Contra Gentiles、II,45; Summa Theologica, I, q. 47, a.2参照。

 

17 Summa Theologica, I, q. 50, a.4参照。

 

18 同q.96,aa. 3,4。

 

19 ピオ十二世、クリスマスの放送、一九四四年、前掲書、八十一~八十二ページ参照。

 

20 ローマ人への手紙七・二十三。

 

21 ローマ人への手紙七・二十五参照。

 

22 本章3のAを見よ。

 

八章

 

知性、意志、人間的行為の決定における感性

 

ここまで考察してくると、次は知性、意志、誤謬と欲望の間にある関係における感性の役割について解明しなければなりません。

 

ある無秩序な欲望を正当化するために、すべての誤謬は知性によって考えつかれたものである、と主張しているようにみえることも可能です。であれば、自由主義的格言を肯定する倫理神学者は、常に自由主義的傾向によって動かされていることになってしまいます。

 

そ れはここで主張していることは異なります。倫理神学者は単に原罪の影響を受けた知性の弱さのせいで自由主義的結論に達するかもしれません。そのような場合、例えば不注意のように、性質を異にする道徳的欠陥が必然的にあるのでしょうか? それは本論の範囲外にある問題です。           

本論が主張するのは、歴史的に見て、この革命には極端に暴力的な激情の発作というパン種にその究極的起源があったという点です。そして、この過程において教義的誤謬も大きな役割を果たしたことを決して否定するものではありません。

 

ド・メートル、ド・ボナルド、ドノソ・コルテス、その他の ― 価値ある著者たちはこれらの誤謬および十五から十六世紀、そして二十世紀に至るまで一つの誤謬がもう一つの誤謬から生まれてきたいきさつについて数多くの研究を発表してきました。故に、ここでこの点に深入りするつもりはありません。

 

し かし、私たちが体験している革命過程の、厳密に思想的諸側面に対する欲望要因と、その影響の重要性に焦点を合わせることが適切であるようには見えます。なぜかと言えば、著者が見る限り、この点に余り注意が払われていないからです。そのために、人々は革命を全体的に見ることをせず、従って不適切な反革命的方 法を採用するのです。

 

それでは欲望が思想に影響を与える方法について付言しておきましょう。

 

1 堕落した本性、恵みと自由意志

 

本性に備わる能力だけによって、人は多くの真理を知り、種々の徳を実践することができます。しかし恩寵の助けなしに十戒について十分な知識を持ち、それを実践し続けるのは不可能です。    

 

つまり、楽園を追放された人間には常に知性の弱さがあり、まず考える前から掟に反逆するよういざなう傾向に影響されるということです。

 

2 革命の胚芽

 

反 逆しようとするこの基本的傾向には、時として自由意志の同意があります。堕落した人間は、このように、十戒のあれやこれやに反してしまいます。しかし、人のこのような反逆はさらに進んで、多かれ少なかれ本人も認めたがらない道徳的秩序全体の憎悪になってしまいます。本質的に革命的であるこの憎悪は教義的誤 謬の原因となり、さらには、道徳法と啓示された教義そのものに反する原則を、意識的かつあからさまに公言するようになります。これは正に聖霊に反する罪です。

 

こ の憎悪が西欧歴史にみられるもっとも深い傾向を動かし始めたとき、革命が始まりました。その過程は現在も発展しつつあります。そしてその教義的誤謬には、現代見られる大棄教のもっとも能動的原因である憎悪の紛れもない痕跡があります。その性質からして、この憎悪は単にある教義上の誤謬に帰してしまうことは できません。それは極端に悪化した無秩序な欲望です。

 

こ の革命に適用される以上の主張は、すべての誤謬の根に常に無秩序な欲望があることを意味するものではありません。また特定の個人、そして社会的グループの中にさえも誤謬が欲望の無秩序を解き放ったことを否定するものでもありません。ここで主張するのは単に、全体的にそしてその主な出来事を取り上げて考察さ れた、革命過程には抑制皆無の欲望に、そのもっとも能動的で根本的な原因があったということです。

 

3 革命と不誠実

 

次 のような反対もあり得るでしょう。もし革命過程において欲望がそれほど重要であるなら、その犠牲者は常に、少なくともある程度、不誠実であるようには見えないでしょうか? 例えば、もしプロテスタンティズムが革命の子であれば、すべてのプロテスタントは裏切り者になるのでしょうか? これは、他の宗教を信 じる善意の人たちがいるかもしれないことを認めている教会の教えに反していないでしょうか?

 

完全に善意の人で基本的には反革命精神の持ち主でありながら、自分に責任のない落ち度から(宗教的、哲学的、政治的、その他の)革命の詭弁術の網に捉えられることがあり得るのは明白です。このような人には責任がありません。

 

必要な変更を加えると、同じことは、自分では望まなかった知性のかげりのために革命理論のある部分を受け入れる人についても言えます。

 

しかし、もしだれかが革命に付き物の無秩序な欲望に動かされて、それと同じ精神を持つのであれば、逆の答えをしなければなりません。

 

そのような状態の下にある革命運動家は、革命の破壊的原則がとても良いものであると確信しているかもしれません。ですから、彼は不誠実ではないでしょうが、自分が陥っている誤謬に関しては責任があるでしょう。

 

また、革命運動家は自分に確信がなかったり、部分的にのみ確信している思想を提唱するようになっているかもしれません。そのような場合、彼は部分的もしくは全面的に不誠実であることになります。

 

こ の意味で、偽革命とフランス革命の否定には、マルクス思想が包含されていたと主張するとき、これら二つの運動の熱烈な信奉者たちが、マルクス思想が発表される前からすでに意識的にマルクス主義者であり、偽善的に自分たちの意見を隠していたと主張するものではないことを強調するのはほとんど不必要であるよう にみえます。

 

魂 の能力の秩序ある布置、従って、聖寵に照らされ、教会教導職に導かれた知性が明晰を増すことはキリスト教的徳の特徴です。ですから、聖人であればどの聖人であっても平衡感覚と公平さの模範なのです。その判断の客観性と善に対するその意志の確固たる指向性は無秩序な欲望の毒気などによって、いささかも左右さ れるものではありません。

 

その反対に、人が徳を失い、これらの欲望のくびきに屈してしまっている程度に応じて、それらの欲望に関連するすべてのことにおいてその客観性は薄れてしまいます。この客観性は特に自己判断という点で狂ってしまいます。

 

それぞれの具体的ケースにおいて、革命精神に目をくらまされた十六または十八世紀の穏やかな革命運動家たちが、その思想の深い意味と究極的な結果をどの程度意識していたかは、神様だけの秘密です。

 

ともかく、すべての革命運動家がマルクス主義者であったという仮定は成立しません。

 

 

1 第一部七章2Dを見よ。

 

2 この真理についてドノーソ・コルテスの重要な展開は本書と直接に関係があります。彼のObras Completas (Madrid: Biblioteca de Autores Cristianos、一九四六年) 第二巻三百七十七ページの "Ensoyo sobre el Catolicismo, el Liberalismo y el Socialismo" を見よ。

 

九章

 

「準反革命」も革命の子

 

ここまで述べてきたことは、実践的観察のための良い基礎になります。


この内的革命によって侵された精神は、例えば非常に伝統的、道徳的環境に育つなどのある種の状況のためとか、または、たまたま一つ、もしくは多くの点で反革命的態度を保っているかもしれません。


しかし、これらの「準反革命運動家たち」の考え方の中で、革命精神はやはり首位を占めるでしょう。

 大部分がこのような考え方をする人々の中にあって、革命は人々の考え方が変わらない限り、抑圧不可能でしょう。

 ですから、革命の統一性からして結果的には、徹底した反革命運動家だけが本物の反革命運動家なのです。

 その魂の中で革命の偶像がよちよち歩きし始めている「準反革命運動家」の状態は少々異なっています。これについては後述。

 

 

1 第一部六章5のAを見よ。

 

2 第二部十二章10を見よ。

 

十章

 

革命における文化、芸術、環境

 

魂、つまり人々の考え方の奥底での革命過程の複雑さと領域を描写した今、革命の進行における文化、芸術、環境にどれほどの重要性があるかを指摘することにしましょう。

 

1 文化

 

革 命思想は、その起源である諸傾向が信奉者及びその他の人たちの目に受容可能であるような印象を与えることを可能にします。後者の真の確信を揺るがせ、このようにして彼らの反逆に傾きがちな欲望を解き放ち、燃え上がらせるために革命運動家に利用されるこれらの思想は革命によって作り出される制度を示唆し、形 成します。そして、知識または文化の思いもかけぬ分野にまで浸透しています。なぜかと言うと革命と反革命の闘争の中で直接的、または少なくとも間接的にこれらの分野が関わっていないことは不可能だからです。

 

2 芸術

 

あ る種の形、色、音、香り、味、その他と魂のある種の状態との間に神秘的かつ賛嘆に値する関係を神が確立したとすると、芸術を通して考え方が深く影響され、人間、家族、民族が、心底から革命的な魂の状態を形成するよう誘導され得ることは明白です。フランス革命と当時流行したファッションとか、現今の革命と今 日のファッションとか芸術における、いわゆる進歩主義に属する諸派に見られる、行き過ぎと混沌との類比を想起すれば、著者が言おうとしていることがお分かりでしょう。

 

3 環境

 

環 境は、良かれ悪しかれ、習慣形成に寄与し得ます。環境が善に寄与する程度に応じて、それは反動の感嘆に値する障壁でもって、もしくは健全な習慣として保たれてきたすべての事柄の惰性でもって革命に抵抗できます。反面、それが悪に寄与する程度に応じて、それは革命精神の巨大な毒とエネルギーを魂に伝えること が可能です。

 

4 革命過程における芸術と環境の歴史的役割

                            

正 にこの理由のために、組織的かつ漸進的にどこまでも趣味が悪くなる習慣とかライフスタイルの一般化、ある種の現代美術のプロレタリア化は、ある種の法律の立法化とかある種の本質的には政治的な制度を確立するのと同じか、またはもっと多く、人類平等主義の勝利に貢献しています。

 

またもしある人が、例えば、不道徳で不可知論的映画の上映を止めさせることができれば、それは国会の場で左翼内閣の崩壊に成功するよりも、反革命に寄与したことになるのも確かです。

 

十一章

 

罪と贖罪についての革命

および革命がもたらす理想郷

 

革命が持つ多くの側面の中で、それが善悪、原罪、贖罪の概念を過小評価する、もしくは否定するように、若い人たちを教育することを強調するのは大事です。

 

1 革命は罪と贖罪を否定

 

前述したように、革命は罪の果実です。しかし、もし革命がそれを認めると、自分自身の覆面を脱ぎ捨てることになりますから、自分の利益になりません。

 

ですから、革命はその罪深い根元について沈黙を保つだけでなく、罪の概念そのものさえ否定する傾向があります。その根元的否定は原罪、自罪に関するだけでなく、主に以下の事柄にも影響されています。

 

●道徳法の有効性と存在を否定する、もしくはこの法に世俗主義の空虚な馬鹿馬鹿しい根拠しか与えない哲学的もしくは法律的組織。

 

●道徳法の存在を直接否定することはないにしても、それを無視するような魂の状態を大衆の中に作り出すプロパガンダの徹底。徳に向けられるはずの尊敬は金、職業、効率、成功、安全、健康、肉体美、筋力、快感に向けられてしまいます。

 

革命は現代人の罪の概念自体、善悪の区別を滅ぼしつつあります。それで、そのこと自体によって、それは我らの主イエス・キリストの贖罪を否定しています。もし罪が存在しないのなら、贖罪は不可解になり、歴史と人生にとってどのような論理的関係も失ってしまいます。

 

2 自由主義と社会主義における罪の否定 その歴史的例

 

その一つ一つの段階で革命は常に、罪の存在を軽く扱ったり、根本的に否定しようとしてきています。

                

A 個人の原罪を否定

 

革 命は、その進歩的かつ個人的側面で、人には不可謬の理性、強固な意志、秩序に抑制された欲望が備わっていると教えました。ここからして、完全な存在と思われた ― 個人はすべてであり、おそらく一時的には必要かもしれない政府は無もしくはほとんど無である…といったような人間世界に関する秩序の概念が生まれてくるの です。無知が誤謬と犯罪の唯一の原因であるとされていた時代には、牢獄を閉鎖する近道は学校を開設することが近道であると思われていました。しかし、個人に原罪がないというのはこれらの考え違いの基本的ドグマでした。

 

国家が優勢になる可能性、および民衆の事柄から関心を反らすことになる派閥の形成に対する進歩主義者の強力な武器はは政治的自由と普遍参政権でした。

 

B 大衆と国家の原罪を否定

 

す でに前世紀、この概念が少なくとも一部分は不正確であることは明らかになっていました。しかし革命が後退することはありませんでした。自分の誤りを認めるよりも、それは別の誤り、つまり大衆と国家が原罪抜きに生まれたという概念を持ち込みました。この概念によると、個人は利己主義に傾きがちであり、過ちを 犯し得るが、大衆はいつでも正しく、自分たちの欲望に駆られて暴走することはないとします。彼らの非の打ち所ない行動手段は国家であり、過ちを犯し得ない表現の手段つまり普遍参政権です。そこから、いつでも大衆の強い意志の実現に導く、社会主義思想に染まった国会とか、カリスマ的独裁者の強い意志が生じる ことになります。

 

3 革命運動家の理想郷は科学と技術による救い

 

あ る意味で、単に一個人、大衆、国家にそのすべての信頼を置くとしても、革命が最終的に信用するのは個人です。科学と技術のおかげで自己充足している個人は、そのすべての問題を解決し、苦痛、貧困、無知、不安定、その他原罪と自在の結果と考えられるすべての事柄を克服することが可能です。

 

革 命が約束する理想郷で、普遍的共和国に包含される諸国は地理的名称でしかなくなります。そこには社会的不平等も経済的不平等も存在しなくなります。そしてそれは、超自然を抜きにして人間に決定的幸福をもたらすために、科学と技術、プロパガンダと心理学で運営されることになります。

 

人 間は科学によって悪に打ち勝っており、この世を技術的に住み良い楽園にしてしまっているはずなので、このような世界にとって私たちの主イエス・キリストによる贖罪の場はありません。そして人は生命の半永久的引き延ばしによっていつか死さえ克服することを希望するようになるのでしょう。

 

十二章

 

革命の平和主義かつ反軍隊主義的性格

 

前章で明らかにしたことからもお分かりのように、革命の平和主義かつ反軍隊主義的性格は容易に理解できます。

 

1 科学は戦争、軍隊、警察を無用にする

 

科学は戦争が悪であり、技術がそのすべての原因に打ち勝つことができることを証明したわけですから、技術がもたらす革命の楽園において平和は恒久的でなければなりません。


ですから革命と軍隊は基本的に両立せず、軍隊は廃止されなければならないことになり、普遍的共和国にとって必要なのは警察だけということになります。それも科学と技術の進歩が犯罪の絶滅を達成し次第廃止されることになるのでしょう。

 

2 革命と制服の間にある教義上の矛盾

 

単にそれが存在するということによって、制服は、疑いもなく幾分か一般的ではありますけれど、確かに反革命的性格があることを含蓄的にあかしします。

 

― そのために人は生命さえもなげうつべき生命以上の価値の存在 ― これは冒険と苦痛に対する嫌悪と安全の崇拝、この世の生命への執着を特徴とする社会主義的考え方とは正反対です。

 

― 道徳の存在。軍隊的条件は名誉、善に仕え悪と戦うなどの概念に基づくものだからです。

 

3 革命の気質は軍隊生活に反する

 

最 後に、革命と軍隊精神は気質的に両立しません。革命はそれが全権を掌握するまではかまびすしく、大げさであり、策動的です。直接的、劇的、簡単な方法で問題を解決する ― つまり軍事的解決 ― は革命の現在の気質に合いません。ここでは身近に見られる革命の現在の段階を想起しつつ「現在」という言葉を強調したいと思います。なぜなら全権を掌握した革命ほど独裁的で残酷なものは存在しないからです。ロシアがその良い例を提供してくれています。しかしそこでさえも、軍隊精神は暗殺者の精神とはかなり 異なるわけですから、逸脱が見られました。

 

*    

 

革命の理想郷を種々の側面から分析したところで、革命の研究を終えることにしましょう。

 

第二部

 

反革命

 

一章

 

反革命は反動

 

1 反革命は革命に反対する特定かつ直接的戦争

 

革命が前述のようなものであれば、反革命とはどのようなものでしょうか? この言葉の文字どおりの ― つまり日常の言葉の中で誤用された扇動的な暗示を取り去った ― 意味からすると、反革命は反動にほかなりません。つまり、それはある行動に反撥して起こされる行動です。例えば、反宗教改革と偽宗教改革の関係は反革命と革命の間に成立します。

 

2 この反動の高貴さ

 

反 革命の高貴さと重要さは反動のこの性格に由来します。実に、もし革命が私たちを殺すのであれば、そのような動きを粉砕することを目指す反動より必要なものが他にあるでしょうか? 反革命の反動に原則として反対であることは、世界を革命の覇権に引き渡すことを望むようなものです。

 

3 現代の敵に向けられた反動

 

こ のように考えられた反革命は雲の中での動き、幽霊相手の戦いではないし、そんなものではあり得ません。それは実に今日の革命にいどむ二十世紀の反革命でなければなりません。故に、反革命は今日燃えさかっている革命の情熱、今日形成されている革命思想、今日見られる革命的雰囲気、現代のあるがままの革命的美 術と文化、今日もっとも活動的な革命運動家や革命的世論に対して挑まれていなければなりません。ですから反革命は過去にあった革命の悪行を列挙するだけでなく、現代にある私たちがその進行をくい止める努力のことです。

 

4 反革命の現代性と誠実さ

 

反 革命の現代性は革命を無視したり、それと最低限の同盟を結んだりすることにあるのではありません。逆に、それは革命の不変の本質とそれに関連する現代的特徴を知り尽くし、これら両者に対して賢く、組織的に、可能な限りの合法的手段を用い、すべての光の子の協力を受けて戦うことにあります。

 

二章

 

反動と歴史的に変わらぬもの

 

1 何が復興されるべきか?

 

もし革命が無秩序の導入であれば、反革命は秩序の復興でしょう。そして秩序と言うとき、その意味はキリストの統治におけるキリストの平和、つまり厳格で位階的、基本的に聖であり、反人類平等主義、反自由主義であるキリスト教的文明を意味します。

 

2 何が改められるべきか?

 

し かし、この世のことに関して動かざるものは存在しない、という歴史の法による力によって反革命から生じる秩序には、革命以前に存在していたのと異なる秩序にしてしまう独特の特徴を備えていなければなりません。もちろん、これは諸原則についてではなく、その偶有性についてのみ言われ得ることです。しかし、こ れらの偶有性は非常に大事で、無視するわけにはいきません。

 

こ の点に関して詳しく掘り下げることは不可能なので、以下の点を指摘するだけにしておきましょう。一般的に言って、一つの有機体が割れたり傷ついたりしたとき、いやされる箇所は特に強化されます。これは新しい傷の可能性に対して二次的原因を通じて働く愛に満ちた摂理の働きです。これは骨折した患部自体が治療 の結果強化される骨折の場合とか裂傷の場合に見られます。これは霊的次元で起こる類似の出来事の物質的イメージです。一般的ルールとして、心の底から悔い改める罪人は、彼が罪を犯す以前の状態よりも罪に対してもっと大きな嫌悪感を持つものです。罪を痛悔する聖人たちの遍歴がこのケースに当てはまります。で すから、教会も自分を滅ぼそうと試みたすべての悪に対しては特に武装して立ち上がるのです。その典型的例が反宗教改革です。

 

この掟によって、反革命から生じる秩序は、以下の三つの点において、革命によって傷ついた中世時代の秩序よりさらに燦然と輝くことになるはずです。

 

●教会と教皇職の権利に対する深い尊敬、世俗生活における諸価値の可能な限りの聖化。これらはすべて世俗主義、諸宗派共同主義、無神論、汎神論、これらそれぞれからの諸帰結に反対するものです。

 

●革命が持つ人類平等主義的形而上学に反対するものとして、社会、国家、文化、生活のすべての面で顕著となる位階性を大事にする精神。

 

● 胎芽状態もしくは不鮮明状態にある悪をこまめに探知し、戦うこと。その悪を嫌悪感をもって破廉恥行為として非難し、それがたとえどんな形態をとっていたとしても、そして特に、革命の自由主義的形而上学に従って悪を自由に振る舞わせ、保護する傾向に反対して、正統性と習慣の純潔を攻撃するときには、断固とし て反撃すること。

 

三章

 

反革命と新奇なものに対する渇望

 

革 命の子らである多くの現代人に見られる傾向は、限りなく現在を愛し、未来を礼拝すること、無条件に過去を軽蔑し、憎むことです。この傾向がある限り、人は反革命についていくつかの点で誤解してしまいます。誤解は解かれねばなりません。多くの人々にとって、特にその伝統主義的、保守的性格が反革命を人間の進 歩にとっては天敵であるかのように見せてしまうのです。

 

1 反革命運動家は伝統主義者

 

A 理由

 

前述のように、反革命は革命に対抗して発達する動きです。革命は常に私たちが祖先から受け継ぎ、未だに保っているキリスト教の制度、教義、習慣、そのあり方、感じ方、考え方という全遺産を敵とします。ですから、反革命はキリスト教伝統の守護者です。

 

B くすぶる灯心

 

革 命はキリスト教文明を攻撃します。そのやり方は多かれ少なかれブラジルの森の中に生えているある種の木のようです。ウロスチグマ・オレアリアと呼ばれるこの絞め殺しイチジク型植物は他の木の幹を根で覆ったり、巻き付いたりして絞め殺してしまいます。その「おとなしい」低速の流れを装って、革命はキリスト教 文明に巻き付き、それを殺してしまおうとすり寄ってきます。現代、この破壊という奇妙な現象はまだその悪行を達成していません。つまり、現代人はキリスト教文明の亡骸と言っても差し支えないような、革命とキリスト教文明の混血状態の中に生きています。人の記憶にはつい最近廃止されたばかりの数多い伝統の芳 香と影響が何となく残って、数多くの革命的制度や習慣と共存しています。

 

未 だに生命を保っている輝かしいキリスト教的伝統と、レオ十三世が回勅『レールム・ノヴァールム』の書き出しで言及なさった、新奇なものへの執着に鼓吹される革命行動を目の当たりにするとき、真の反革命運動家が良い諸伝統という宝物倉の熱心な守護者であるのは当然のことでしょう。なぜならこれらこそ、未だに 生きながらえ、かつ未来に伝えるべきキリスト教の過去から受け継いだ価値だからです。その意味で、反革命運動家は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さなかった主キリストのように振る舞います。ですから彼はこれらのキリスト教的伝統を心を込めて守ろうとしなければなりません。反革命的行動は本質的に保守的行動です。

 

C 偽りの伝統主義

 

反革命の伝統主義者精神は、ある種の儀式、スタイル、習慣をそれらの起源になった教えを重んじることなく、単に古い形式が好きだからという理由のみで保存する偽のそして狭い伝統とは無関係です。これは健全な生きた伝統主義ならぬ考古学です。

 

2 反革命は保守的

 

反革命は保守的でしょうか? ある意味では正にそのとおりです。また観点を変えてみるとまったくそうではありません。

 

もし現代の何かの良いもの、しかも後世に伝えられるべきものを保存しようとする意味でなら、それは保守的でしょう。

 

し かしもしそれが、塩の柱のように不動のまま突っ立って傍観者になり、現代の善悪を両方ともお構いなく受け入れて、善悪の調和ある共存を受容して現在の革命過程を永続させたり、私たちを取り囲む混血状態を保存しようというのであれば、反革命は保守主義ではありませんし、あり得ません。

 

3 反革命は本物の進歩のために不可欠

         

反革命は進歩にとって有用でしょうか? もし進歩が本物の進歩であればしかりです。もしそれが革命の理想郷を目指すのであればいなです。

 

そ の物質的側面において、本物の進歩とは神の法に基づいて自然の力を人間の利益のために正しく使用することにあります。この理由のために、反革命は今日のギラギラした技術万能主義、新奇なものへの傾倒、スピード、機械、人間社会を機械的に組織しようとする傾向と手を結ぶものではありません。これらはピオ十二 世が強く、かつ正確に断罪なさった行き過ぎです。

 

ま た、人々の物質的進歩はキリスト教が考える進歩の主要素でもありません。後者が考えている進歩は、なかんずく人間の魂の力が全的に発展し、人類が道徳的完成に向かって進むことにあります。それで、進歩に関する反革命の概念は物質的というより霊的諸価値を重んじることにあります。ですから、反革命にとっては 個人的、社会的に、身体の善とか物質の活用でなく、真の宗教、哲学、芸術、文学に関する事柄を重んじることがふさわしいのです。

 

最後に、革命と反革命が持つ進歩の概念に関する違いを明確にしなければなりません。反革命にとって世界は常に涙の谷、天国への経過地であっても、革命にとって進歩とはこの世を、人が永遠について考えることなく幸せに生きる楽園にすることなのです。


正しい進歩の概念自体からして、革命過程は正にその反対であることが分かります。


ですから、真の進歩の正常な発達を維持し、進歩の見せかけでしかない革命的理想郷を打破するために、反革命は欠かせない条件であると言えます。

 

 

1 マタイ十二・二十参照。

 

2 ワイゼルマンス、Major Addresses of Pope Pius XII、第二巻二百三十三ページ、ピオ十二世、一九五七年のクリスマスのラジオ放送参照。

 

四章

 

反革命運動家とは

 

反革命運動家とは何者でしょうか? 二とおりの答えがあります。

 

1 その実際の姿

 

実際の反革命運動家は:

 

― 革命、秩序、反革命の精神、教義、方法論を理解しています。

 

― 反革命とキリスト教的秩序を愛し、革命と「無秩序」を憎みます。

 

― この愛憎をその理想、選択、活動の主軸とします。

 

も ちろん、このような魂の態度を持つために高等教育が必要であるわけではありません。聖女ジャンヌ・ダルクは神学者ではなかったのに、深い神学思想に裏打ちされた自分の考えで裁判官たちを驚愕させました。同様に、革命の精神と目的を深く理解していたナヴァラ、ヴァンデー、チロルの単純な農夫たちが反革命に とって最優秀な兵士たちであったのです。

 

2 その可能性

 

反 革命運動家になる可能性がある人たちとは、革命精神にその人格の深み自体が冒されていないにしても、不注意とかその他の理由のために、革命運動家たちの意見とか感じ方にそれとなく冒されている人たちです。警告を受け、照らされ、方向付けされるとこのような人たちは容易に反革命の立場に立つようになります。 そしてこの意味で、彼らは前述の「準反革命運動家たち」とは異なります。

 

 

1 第一部九章を見よ。

 

 

五章

 

反革命の戦術

 

反革命運動家の戦術は個人、グループ、または実際の反革命運動家、潜在的反革命運動家、革命運動家という三つのタイプに関する世論、という観点から検討することができます。

 

1 実際の反革命運動家に関連づけられた戦術

 

実 際の反革命運動家は、人々がついそう思いたがるほどは少なくありません。彼は物事に関して明確なビジョン、論理の首尾一貫性の基礎的愛、強い魂の持ち主です。ですから、彼には、現代世界の無秩序と地平線の向こうに迫りつつある破局について、透徹した認識があります。正にこのような認識があると、彼は自分が 解決の糸口さえ見えない無秩序の中にあって、自分の孤立状態をいやというほど思い知らされます。そのようにして、しばしば反革命運動家は失望の中に沈黙を決め込んでしまいます ― 悲しいことです。聖書には"Vae soli"「倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ」と書かれています。1

 

反革命的行動はまず同志を探し出して、互いを知らしめ、自分たちの信念を公にするとき相互に援助させることです。それには二通のやり方があります。

 

A 個人の行動

 

こ の行動はまず個人的レベルで開始されなければなりません。大学生、軍人、教師、特に司祭、貴族、周囲に影響力がある労働者などの率直な誇り高い反革命の立場に勝って効果的なものはありません。先ずは反発を受けるでしょう。しかし忍耐すれば、その時の事情にも寄りますが、しばらくすると徐々に同志が現れるも のです。

 

B 共同の行動

 

このような個人的接触は、当然、各地で何人かの反革命運動家を結集させ、あたかも反革命魂の家庭を形成します。彼らの力は集まること自体で何倍にもなります。

 

2 潜在的反革命運動家に関連づけづけられた戦術

 

反 革命運動家たちは革命と反革命の宗教的、政治的、社会的、経済的、文化的などのすべての側面を提示すべきです。これは大事なことです。なぜなら、潜在的反革命運動家たちは、一般的に、革命にしても反革命にしても、たった一つの特殊な側面からしか見ていないからです。このような提示によって彼らは革命と反革 命の全面的視野に魅力を感じることができ、また実際に魅力を感じるはずです。例えば政治という一つの側面だけを論じる反革命運動家は、自分の魅力の範囲を狭めます。その行動は不毛になり、破滅と死に向かいます。

 

3 革命運動家に関連づけられた戦術

 

A 反革命運動家のイニシアティブ

 

革命と反革命の前で中立を保つことはできません。意識的または無意識的に、そのかすかな意欲がどちらかの側にある非戦闘員がいるかもしれないのは確かです。しかし革命運動家は革命の完全で公然たる闘士ですが、反革命運動家についても同じことが言えます。

 

前述のように、革命はその正体、その真の精神、その究極目的を隠すことで進歩してきています。

 

革命運動家に対して最良の反論は、その行動の精神であれ一般的輪郭であれ、または一見無害で無意味に見える現象や行動であれ、その全体像を見せることです。このようにそのヴェールを引き剥がすことは革命運動にとっては最悪の打撃になります。

 

この理由のために、反革命的エネルギーは総力を挙げてこの点を突かねばなりません。

 

また、反革命行動の成功のためには巧妙な弁証法という他の工夫ももちろん欠かせません。

 

準 反革命運動家とか反革命的傾向のある革命運動家と協力する可能性も、ないとは言えません。このような協力には、どこまでが賢明なのだろうか決定しなければならないという、特殊な問題点が付きまといます。著者の考えによれば、反革命の戦争は根本的かつ全面的に革命のウイルスに汚染されていない人々を結集する ことによってのみ、まともに遂行されるのです。反革命的グループがある具体的目標のために革命グループと協力できることは考えられ得ることです。しかし、革命の影響に冒された人々と全面的かつ連続的に協力できると考えることは、最悪の不賢明のそしりを免れず、さらにはおそらくほとんどの反革命運動が失敗す る原因かもしれません。

 

B 革命勢力の反抗

 

通 常、敵がいないとか、敵が弱体であると見ると、革命運動家は気短、多弁、傲慢です。しかし、もしだれかが誇り高く彼に敢えて抵抗すると、彼は黙りを決め込み、組織的沈黙作戦に入ります。が、それでも聞こえてくるのはその敵の「過度の論理」に対する遠慮がちながらの中傷とかつぶやきです。しかし、それは放置 して置いても問題にならない程度の混乱と羞恥に覆われた沈黙です。この混乱と敗北の沈黙を前にして、勝ち誇る反革命運動家たちにはヴェイヨーの次の言葉を贈りたいと思います。「沈黙に問いかけて見よ。それはさらなる沈黙で応えるのみ」。2

 

 

4 反革命戦術におけるエリートと大衆

 

可 能な限り、反革命は大衆を味方に付けるべきです。しかし、短期的にはそれを主な目的にするべきではありません。反革命運動家は大多数が自分たちの側に付いていないからと言って勇気を失ってはいけません。実に、歴史の詳しい研究は革命を達成するのが大衆でなかったことを示します。大衆は革命の指導者たちがい たからこそ革命の方向に進みました。反革命的指導者たちがいればおそらく反対の方向に向かったはずです。歴史の客観的研究は大衆という要素が二次的であり、主要因は指導者群の養成であることを示します。指導者養成のために、反革命運動家は常に自分の個人的行動をその手段に使い、正にそのために資金とか技 術的手段の不足のために不自由していても、いい結果をもたらすことができます。

 

 

1 伝導の書四・十。

 

2 ルイ・ヴェイヨ、Oeuvres Complètes (Paris: Lethielleux Librairie-Editeur, n.d.)、三十三巻三百四十九ページ。

 

六章

 

反革命の行動手段

 

 大規模の行動手段が望ましい

 

ちろん原則的には、反革命運動がテレビ、ラジオ、大新聞、理性的、効果的、人目に付きやすい広報など最善の手段が使えるにこしたことはありません。真の反革命運動家であれば、それらすべてが闇の子の手中にあると考えて、それらを利用することをすぐにあきらめてしまう同志の敗北主義的態度に影響されないで、 常にこれらの手段を使うことを恐れてはいけません。

 

しかし、反革命運動はしばしばこれらの手段なしに計画されなければならないことも認識せざるを得ません。

 

2 小規模の手段の採用・その効果

 

もっ とも小さな手段であっても正しい精神と知性で利用されるのであれば、反革命行動はそれでもかなりの成果を上げることができます。前述のように、反革命行動はたとえそれが個人的行動になったとしても考えられ得るのです。しかし、もしそれが成功するのであれば、それはすべての進歩に道を開く個人的行動なしには 考えられません。

 

反革命的霊感に溢れたミニコミもそのレベルが高ければ、特に反革命運動家を連帯させるという手始めのためには驚くほど効果的です。

 

同様に効果的であるのは書籍、講演会、反革命に役立ち得る教職です。

七章

 

反革命の障壁

 

1 反革命運動家が避けるべき落とし穴

 

反革命運動家が避けるべき落とし穴は、しばしば反革命運動のエージェントに見られるある種の悪習です。

 

反 革命的集会とか刊行物のテーマは注意深く選ばれねばなりません。反革命は、こまごました事柄や副次的な事柄を伴うその取り組みにおいてさえも、常にイデオロギー的でなければなりません。例えば、現在進行中または最近の政党政治を検討することは有用かもしれません。しかし、小さな個人的問題を過度に強調する こと、その地方のイデオロギー的相手との闘争を反革命運動の主目標にしてしまうこと、それがどれほど正当なものであっても、反革命を単なる回顧趣味にしてしまうこととか、それがどれほど聖であり正義にかなっていたとしても、個人的忠誠から来る義務と考え、話すことは個を一般化することになります。それは自 分が奉仕したいとを望んでいる運動を破壊することに通じます。

 

2 革命スローガン

 

また、これらの障壁はしばしば最良の分子からさえもドグマとして信じ込まれている革命スローガンです。

 

A 「反革命は時代遅れ」

 

これらのスローガンの中でもっともよく耳にし、かつ有害であるのは、現代の時代精神に逆行する反革命が成功するわけがないという主張です。歴史は逆戻りしないなどとも言われます。

 

も しこの原則が正しければカトリックの宗教は存在しないはずです。なぜなら主イエス・キリストと弟子たちが説教した福音と当時の環境は、真っ向から対立していたからです。また、ゲルマン・ローマ・カトリックのスペインは、存在しなかったはずではありませんか? 八世紀を経た後に達成されたコバドンガからグラ ナダ陥落に至るスペインのキリスト教的偉容の完全回復ほど、復活に酷似した事件は存在しません。それはある意味で過去への回帰であったと言えます。革命運動家にとって大事なルネッサンスにしても、それ自体は少なくともいくつかの観点からは、千年以上の期間も化石のようになっていた文化芸術の自然主義への回 帰でした。

 

歴史は善の道と悪の道への行き来を包含するものです。

 

と ころで、革命が何かを時代の精神と合致していると考えるとき、私たちは用心しなければなりません。それはほとんどの場合、自分たちが復活させることを望んでいる異教時代のごみあくたにしか過ぎません。例えば、古代世界で頻繁に見られた離婚、ヌード主義、圧政、民衆扇動のどこに新しさがありますか? なぜ離 婚の自由を提唱する人たちが現代的で、結婚の不解消性を提唱する人たちが時代遅れである、と見なされなければならないのでしょうか? 革命が現代的と考えるものは、結局、傲慢、人類平等主義、快楽至上主義、自由主義でしかありません。

 

B 「反革命は否定的」

 

革命のもう一つのスローガンによれば、反革命はその名前からして、否定的であり、故に非生産的であると定義づけられます。これは単なる言葉の遊びに過ぎません。なぜなら、否定の否定は肯定であるという事実を踏まえて、人間精神は不可謬性(infallibility)、独立(independence)、潔白(innocence)、 その他の、最高に肯定的概念を否定的な形で表現するからです。否定的表現を取るという理由で、これらの価値のために戦うことが否定主義になるのでしょうか? 第一ヴァティカン公会議は、教皇の不可謬性を宣言したとき、何か否定的なことをしたのでしょうか? 無原罪の御宿りは神の母の否定的特権でしょう か?

 

C 「反革命は理屈が多い」

 

三 番目のキャッチフレーズは、反革命運動家の知的所産が否定的、論争的であるとします。確かに、彼らは誤謬の訂正に関係なく明白に真理を説明する代わりに、誤謬の反駁を強調するきらいはあります。これらの著作物は論争の相手をいらいらさせ、追い払ってしまうので、非生産的であると考えられることがあります。 行き過ぎがあれば別ですが、この一見過度の否定的取り組みは実に正当です。前述のように、革命の教義はルーテルと初期革命運動家たちの否定の中に包含されており、何世紀かかけて非常に段階的に明白になってきました。従って、反革命的著作家たちは極初期から ― そして正確に ― すべての革命的公式には公式自体を超越する何かがあることを感じ取っていました。革命過程のおのおのの段階の中では、単にその特定の段階で主張されるイデオロギーに振り回されることなく、革命自体の考え方を考察する方がもっと大事です。もしそのような著作物が深く、効果的、全く客観的なものであるとすれ ば、それは革命の進展を、面倒ではあっても段階を追って、革命過程の中で含蓄的なものも明らかにしなければなりません。このようにして初めて、革命を正しく攻撃できるのです。これらすべては反革命運動家たちが革命の誤謬に関する論文を作成したり、指示したりしながらも、その眼を革命に釘付けにしてきまし た。この大いなる知的労苦において、教会教導職の庫に存在する真理と秩序の教えは、反革命運動家がその真っ暗な深淵を深く探れば探るほど、革命に反駁するために必要な新しい教えと古い教えを見いだすことのできる宝の倉です。

 

こ のようにそのもっとも重要な側面のいくつかにおいて、反革命の仕事は否定主義的であり、論争的ですが、これは健全なことです。類似の理由のために、教会教導職もしばしば歴史の過程で起こってくる異端に関連して真理を定義づけ、反対する誤謬の断罪としてこれらの真理を発表するのです。

 

3 革命スローガンに対する間違った態度

 

A 革命スローガンの無視

 

反 革命の努力は書斎に籠もるような意味での学問的であってはなりません。つまり、それは純粋に科学的、学問的レベルの反革命弁証法だけで満足してはならないということです。このレベルの重要性を認めながらも、反革命運動家は常に世論として考えられ、感じられ、生きられている革命に全体的に目を向けている必要 があります。この意味で、反革命運動家は革命のキャッチフレーズの反駁には特に重きを置かねばなりません。

 

B 反革命行動の論争的側面の無視

 

悲しいことに、革命をもっとも効果的に攻撃かわりに、反革命をもっと「感じよく」「肯定的」に提示するのは、その内容とダイナミズムを貧弱にする最悪のやり方です。

 

このような憂うべき戦術を採用する者は、敵の軍隊がその国境を侵犯しているというのに敵国と仲良くなることで、侵犯を防ぐために武力による対抗を止めるように命令する国家元首のようなものです。つまり、このようなやり方は降伏にほかなりません。

 

これは反革命的論文に情況に適したニュアンスがあってはいけない、ということではありません。

 

神である主は、不実なファリザイ人たちの影響が強かったユダヤで説教なさったときには、強い言葉を使われました。その反対に、素朴な心の人たちが多く、ファリザイ人たちの影響が少なかったガリラヤで、そのお言葉は論争的というより教師のそれでした。

 

 

1 マタイ十三・五十二参照。

2 第二部八章三B参照。

 

八章

 

反革命の段階的性格と反革命の「ショック」

 

1 反革命には過程がある

 

革命と同じく反革命にも過程があるのは当然で、秩序に向かうその漸進的、組織的進展は研究の対象になり得ます。

 

しかし、この進展には完全な無秩序を目指す革命運動と比較して根本的に異なるいくつかの特徴があります。これは善のダイナミズムと悪のダイナミズムとの間には根本的な違いがあるからです。

 

2 革命過程の典型的側面

 

A 急速な展開において

 

革命に見られる二種類の速度について話したとき、ある人たちが一瞬のうちに革命の警句に捕まってしまい、直ちに誤謬のすべての結果に苦しむことになるのを見ました。

 

B 緩慢な展開において  

 

ま た外の人たちが革命理論を緩慢に、一つ一つ受け入れるのも見ました。多くの場合、この過程は世代から世代にわたって間断なく発展します。革命がもたらす激動に強く反対する「準反革命運動家」の息子はそれほど抵抗を感じません。そして孫の代になるとそういうことに関心を示しません。そしてその次の代の曾孫は 革命の流れに完全に飲み込まれてしまいます。前述したように、この理由はある家族の考え方とか無意識とか感じ方には、部分的に、彼らを秩序に結びつける反革命的習慣とかパン種があるからです。このような家族にあって、革命的腐敗はそれほど力を振るえないので、誤謬はあたかも変装しているかのように、革命精 神を段階的にのみにしか浸透させることができません。

 

リ ズムのこの同じ緩慢さは、多くの人たちが生涯の中に自分の意見を完全に変えてしまうことの説明にもなります。例えば、十代の若者として、ある人たちは自分たちが住んでいる環境に応じて、慎みのないファッションに対する厳しい意見を持ちます。後に、習慣がもっとだらしない方向に「進化して」同じ人たちが流行 を追うようになります。そして年を取るにつれて、若い頃なら断罪したはずのスタイルを好ましいと思うようになります。彼らがこの点にまで到達したのは、革命の微妙な段階を緩慢に、無意識に通過してしまったからです。彼らには、自分たちの周りにある革命が自分たちをどこにつれて行くのか見極める洞察力も元気 もなかったのです。彼らは少しずつ、若い頃から燃えていた同年代の革命運動家たちと同じになってしまいます。これらの魂の中に残っている真理と善は、打ち負かされ、倒れているようにみえても、重大な誤謬と悪を眼にしてうろたえることなく、時としてはどんでん返しのように革命の邪悪な深さを理解させ、そのす べての顕現に対する反対の無条件、かつ組織的反対の態度を取るに至らせるのです。魂の目覚め、反革命運動の具体化を避けるために革命は段階的に進行するのです。

 

3 革命過程の破壊法

 

もしこれが革命の犠牲者の大半を革命に引きずり込むやり方であるとすれば、この過程から自分を引き離すにはどうすればよいのでしょうか? その方法は高速の革命的進展によって引きずり込まれた人たちが反革命に回心する過程とは、異なっているのでしょうか?

 

A 聖霊が使用なさる種々の方法

 

魂の中で神が使用なさる、尽きることなく変化に富んだなさり方には限りがありません。このように複雑な事柄を図式化使用とする試みは無駄です。ですからこのことに関しては避けるべきいくつかの誤謬と提案されるべきいくつかの態度を提案するに止めましょう。

 

だれの回心であっても、真実を語るに当たって時としては厳しく、また時としては母親の優しさでもって各人の必要に応じて語りかけられる聖霊の働きがあって、初めて可能になります。

 

B 何も隠してはいけない

 

こ のように、誤謬から真理への旅の中で、魂は革命の巧妙な沈黙とかその欺瞞的変態と戦う必要はありません。知るに値するもので隠されているものは何一つとしてありません。真理と善はすでに教会が完全に教えています。善における進歩は、人間形成の究極目的を人から系統的に隠すことによってではなく、むしろ、そ れを指し示して、それをさらに好ましく見せることによって保証されます。

 

で すから、反革命はその意図するところすべてを隠蔽してはならず「あたかもそれが傷物であるか密輸品であるかのように、曖昧な旗印でごまかして、カトリックの身分を隠すことは、忠実なことでも、感心すべきことでもない」という、ピオ十世が真の使徒のための規範的規約として定められたあの賢い規則を採用しなけ ればなりません。カトリック信者は「耳を傾けてもらえない、または完全に見捨てられてしまうと思って、福音のもっと大事な掟を覆い隠してしまっては」なりません。同教皇は賢明にも以下を付け加えておられます。


私たちの教会に敵意を持つとか、神を信じない人たちを照らして、真理を伝える際に、ある種の日和見をすることは、疑いなく賢明に反します。聖グレゴリオが 言っているように、切開の必要のある傷は、まずは、繊細な手で触られねばなりません。しかし、いつどのような場合もそうし続けることは、ひたすら人間的にのみ賢明であり続けることになるでしょう。さらに、こういうやり方は、司祭職と司祭たちにだけでなく、すべてのキリスト信者に与えられる神の恩寵に、あま り尊敬を払わないで、私たち人間の言行だけで人々の魂を動かそうとすることにならないでしょうか? 

 

C 大きな回心の「ショック」

 

こういうことを簡単な概要にまとめる試みを非難してきましたが、目の前に具体的にある革命への完全かつ意識的追随は大きな罪、根本的棄教であるように思われます。そこから立ち直るには同じく根本的回心が必要でしょう。

 

さ て、歴史によれば、大きな回心は、通常、内的または外的出来事があって、その際に与えられる恩寵によって起こります。それはまるで、魂が爆発するような聖霊による背中の一押しによって起こります。これはケースによって異なりますが、しばしば類似した特徴を持つものです。実に、革命運動家が反革命に転じると きに、この背中の一押しはまれならず以下の道筋を辿るようです。

 

a  この過程の急進的進化において、直接的に革命の極端を選択した根っからの罪人の魂の中には、常に、漠然とはしているものの、うちに秘められた知性、常識の力、善への傾向があるものです。神は、これらの魂から十分な恩寵を拒絶なさいませんが、しばしば、彼らが悲惨のどん底に陥るまで待たれます。その上で突然 彼らの間違いと罪を、あたかも稲妻が照らし出すように気づかせるのです。あの放蕩息子も豚のえさで自分の腹を喜んで満たそうと思うほど堕落しなければ、自分の本当の姿を見て、父親の家に帰ろうと決心しなかったのです。

 

b  革命の坂道をゆっくりと滑り落ちつつある、生ぬるく、近視的な魂において、完全に拒絶されていない超自然的パン種は、まだ少しは活動できます。伝統的価値、秩序、宗教はまだでも灰の下にある琥珀のように光を放ちます。このような魂は、恩寵の対極にあるときに受ける健康なショックによって、目が開け、一瞬 にして自分の中でやせ衰え、消耗しつつあったすべてを復活させるかも知れません。これは消えつつあった蝋燭の芯が再び燃え出すようなものです。6 

 

D 現代におけるこのショックの可能性

 

さて、迫り来る破局の前に立つ全人類にとって、これは正に神の慈悲によって準備された偉大な瞬間であるように見えます。急進的であれ緩慢であれ、両方の革命運動家たちは私たちがその中で生きているこのひどい黄昏の中で目を開き、神に向かって回心することができます。

 

民 衆の扇動とか誇張なしで、また同時に弱くあることもなく、反革命運動家は革命の子らに事実を知らしめるために、この恐るべき光景を熱心に利用して、彼らの中に救いの「照らし」が生じるよう努めるべきです。私たちに襲いかかろうとしている危機を勇敢に指摘することは、本物の反革命的行為の特徴です。

 

E 革命の全貌を明らかにする

 

文明が全面的に滅亡してしまうかも知れない危険を、単に指摘するだけでは不足です。周囲を取り巻く混沌の中にあって、革命の極めて醜い全貌をあからさまにする方法を私たちは心得ていなければなりません。その全貌が見えてくるときに、激しい反動が爆発的に起こります。

 

こ のために、フランス革命の期間中と十九世紀全体にわたって、フランスでの反革命運動にはかつてなかった強さがありました。革命の顔がこれほど暴露されたことはかつてありませんでした。古来の秩序が難破させられた大渦巻きの巨大さは、突如、多くの人々の目を覚まさせ、人々は、何世紀にもわたって革命によって 沈黙させられ、否定されてきた数々の真実に気づくようになりました。特に、その悪意と、ほとんどの人々が、長期にわたって潔白であると誤って信じ込んでいた思想とか習慣とかに、革命精神がどれほど深く関わっていたかを、明瞭に見始めたのです。

 

このように、反革命は革命がその犠牲者の上に投げかける呪縛から人々を解き放つためには、ほとんどいつでも革命の全貌を暴露しなければなりません。

 

F 反革命の形而上学的側面の指摘

 

革命精神の神髄は、以上見たように、原則的に、また形而上学的次元で、すべての不平等とすべての法律、特に道徳法を憎むことにあります。それだけでなく、傲慢、反逆精神、猥褻は、正にもっとも革命の道に沿って人類を進ませる諸要因にほかなりません。

 

ですから、反革命運動の非常に重要な部分は、形而上学的次元で考察された不平等、権威の原則、道徳法と純潔への愛を教えることにあります。

                           

G 反革命の二つの段階

 

a 革命運動家が根本的に回心して反革命運動家になるとき、反革命の最初の段階は彼自身に止まります。

 

b 第二の段階は長期にわたるかも知れません。その段階で、魂は回心の行為において取られた立場にそのすべての概念と感じ方を適合させ始めます。

 

反革命過程を詳細に描写するこれら二つの大きな、また全く区別された段階は、魂の中で起こるままに提示されています。必要な変更を加えれば、同じことは大きなグループもしくは全民族という規模でさえも起こるかも知れません。

 

 

1 第一部六章4を見よ。

 

2 聖ピオ十世、イタリア社会経済連盟総裁メドラゴ・アルバニ伯爵への書簡、一九〇九年十一月二十二日、パリ、ボンヌ・プレス、五巻七十六ページ。

 

3 聖ピオ十世の回勅 "Jucunda Sane"、一九〇四年三月十二日、パリ、ボンヌ・プレス、第一巻百五十八ページ。

 

4 前掲書。

 

九章

 

反革命の推進力

 

革命に推進力があるように、反革命にも推進力が存在します。

 

1 徳と反革命

 

著 者は神、徳、善、特に位階性と純潔に対する形而上学的憎悪の中で解き放たれた人間の持つ激情のダイナミズムを、革命の最強の推進力であると指摘します。同様に、全く異なった性質ではありますが、反革命にも推進力があります。(その学問上の意味での)欲望そのものは道徳的に言えば中立です。欲望が悪くなるの はそれが無秩序になるときです。しかし、欲望が秩序に従う限りそれは良いものであり、忠実に意志と理性に従います。私たちは晴朗かつ高貴、しかも高度に効果的な反革命の推進力を探さねばなりません。しかし、それがどこにあるかと言えば、それは神が人の理性を治め、人の理性が意志の上位にあり、人の意志が感 覚をコントロールするときに可能になる魂の活力の中にほかなりません。

 

2 超自然的生命と反革命

 

こ のような活力は超自然的生命を抜きにして説明が不可能です。聖寵の役割は正に知性を照らし、意志を強め、感覚を治めて善に向かわせることにあります。そこからして、魂は、堕落した本性の悲惨から救い上げ、そして実に人間本性そのもののレベル以上に高める超自然的生命から計り知れない恩恵を受けます。キリス ト信者の魂に備わる力の中に反革命のダイナミズムがあるのです。

 

3 反革命の無敵さ

 

こ のダイナミズムには、どのような価値があるのだろうと不思議に思う人がいるかも知れません。そのような疑問に著者は、理論的にはそれが計測不可能なものであり、確かに革命のダイナミズムに勝るものであると答えます。「私を強めてくださる方のおかげで、私にはすべてが可能です。」

 

人 が神の恩寵に協力する決心をするとき、歴史の奇跡は起こるものです。ローマ帝国の回心、中世期の形成、コバドンガに始まるスペイン奪回など、人間に可能であった魂の偉大な復活から生じたこれらすべての出来事を考えてみて下さい。徳を積み、真に神を愛する人々に立ち向かえる者はいませんから、このような魂の 復活は無敵なのです。

 

 

1 フィリッピ人への手紙、四・十三。

 

十章

 

反革命、罪、贖罪

 

1 反革命運動家は善悪の概念を復活させるべき

                

反 革命のもっとも意義深い使命の一つは善悪の区別、本論で言うところの罪、原罪、自罪の概念を再確立、または復活させることです。教会の精神が深く浸透していれば、この事業は、革命スローガンに多かれ少なかれ鼓吹されているある種の著作家たちがしばしば言うところの神の慈悲に対する絶望、仮病、厭人主義、そ の他を産出することはありません。

 

2 善悪の概念をどのように復活させるか?

 

善悪の概念は種々のやり方で復活させることができます。その方法には、例えば、以下のようなものがあります。

 

●世俗主義と超教派主義は論理的に無道徳主義になるので、世俗主義または超教派主義のにおいのするすべてのやり方を避けます。

 

●神には従順を要求する権利があり、従ってその掟は私たちに気に入るからではなく、従順の精神から従わなければならない真の掟であることを、機会を見て指摘します。

 

●神の掟は本質的に善であり、創造主の完全さが映し出される宇宙の秩序に合致していることを強調します。このような理由のために、私たちは掟に従うだけでなく、愛さなければなりません。また悪を避けるだけでなく、憎まねばなりません。

 

●死後の賞罰の概念を拡げます。

 

●正しさが誉められ、悪は社会的にも罰を受けるような社会的慣習や法律に肩入れします。

 

●人の中における原罪の諸結果、人の弱さ、人が最後まで堪え忍ぶため主イエス・キリストによる贖いの実り多さ、恵み、祈り、警戒の必要さを強く主張します。

 

●徳の教師、恵みの泉、誤謬と罪に妥協しない敵としての教会の使命を機会ある毎に示します。

 

十一章

 

反革命と世俗社会

 

反革命と世俗的社会は多くの価値ある論文で説かれてきたテーマです。この論文は、その中ですべての主題にわたって論じることが不可能であるので、反革命的世俗秩序の一般原則と、反革命と世俗的秩序の改善のために戦ういくつかの主な団体の関係を分析することに絞ります。

 

1 反革命と社会組織

 

世俗社会の中には社会問題に取り組んでいる数多くの団体があります。そしてこれらの団体は、直接かつ間接的に、反革命が目的とする主イエス・キリストの統治の確立という同じ究極目的を持っています。このように目的を共有するわけですから、反革命とこれらの団体の関係を研究する必要があります。

 

A 慈善事業、社会奉仕、雇用者と労働者その他の組合

 

a これらの事業が社会経済生活を正常化する度合いに応じて、彼らは革命過程の発展に警戒しています。その意味で、含蓄的かつ間接的にではあれ、彼らは反革命の貴重な援軍であると言えます。

 

b しかし、この意味で、これらの事業に熱心な人たちにも、不幸にしてしばしばいくつかの真理が隠されています。

 

● このような事業が、大衆の中でこれほどの不穏の源になっている物質的困窮を軽減したり、また時としては解決したりすることがあることに疑いはありません。しかし、革命の精神は第一義的には貧しさから発生するのではありません。その根は道徳的であり、故に宗教的なものです。ですから、彼らの性格が許す限りにおいて、これらの事業は、現代これほど強力な革命のウイルスについて人々に警告することを、特に強調する宗教的、道徳的養成を推進しなければなりません。

 

●聖にして母なる教会は人間の苦悩を軽減することであれば、同情の心でどんなことでも奨励します。教会がそれらを全部解決できないことを知らないわけではありません。それでも教会は聖なる諦観をもって病気、貧困、その他の困窮に処するよう説きます。

 

● 疑いもなく、これらの事業は労使間に相互理解の雰囲気を生み出し、従って、階級闘争の縁にある人たちを奪い返す貴重な機会になります。しかし、親切心が常に人間の悪を武装解除するとは限りません。主が在世中になさったあれほどの善行でさえも悪人が主に対して持っていた憎悪をそらすことができませんでした。 ですから、革命に対抗する戦いの中で、人はできることなら親切に魂を導くべきではありますが、例えば共産主義などという種々の形態に対して、正しく合法的手段に頼る直接的かつ明白な戦闘が許され、一般的に言えば、欠かすことができないことは明らかです。

 

●上記の事業が、受益者または提携者に、彼らが受けた恩恵に対する感謝、またそれが恩恵でなく正義に基づく行為であれば、そのような行為の原因となった道徳的正しさに対する正当な認識を繰り返し教え込むことが特に要求されます。

 

● 上記の段落では、主に労働者について述べてあります。しかし、反革命運動家は体系的にある特定の社会階層を特別扱いしないと指摘されるべきです。彼は、上流階級の人々に、私有財産に対する権利を擁護する熱意を持っていても、自分たちの個人的利益が攻撃される分野だけで革命に反対して、よくあることですが、 家庭生活で、海水浴場、プール、その他の娯楽の場で、また知的、芸術的趣味などその他の分野では革命に肩入れするのでは不十分であることに注意を喚起しなければなりません。彼らの模範に倣い、彼らの革命思想を受け入れる労働者階級は、必然的に革命によって「準反革命」のエリートに敵対して利用されることに なります。

 

 ●革命に油断させるため、わざと下品な行儀作法とか衣服を採用する貴族階級や中産階級は自分自身に損害をもたらします。自分を低める社会的権威はその味を失った塩のようなものです。それは捨てられて、人々から踏みつけられる外には何の役にも立ちません。あざけり笑う大衆は大抵の場合そうするでしょう。

 

●上流階級は、自分たちの地位を威厳と活力でもって維持しながらも、他の階級の人々たちと率直かつ善意に満ちた接触を保つべきです。距離を置いて実践する愛徳と正義は異なる社会階級の間に真にキリスト教的な愛のきずなを確立するために不適切です。

 

● 特に、財産を所有する人たちは、当然、社会的機能も備えた個人の権利としての私有財産権を、共産主義が侵害するのを防止しようとする多くの人たちがいるとすれば、それは、神がそれを望み、それが自然法に本質的に基づいているからであるということを記憶に止めるべきです。さて、この原則は資本家だけでなく労 働者の財産についても言えることです。従って、反共産主義の闘争の裏にあるその同じ原則は、突き詰めて言えば、資本家には、労働者とその家族の必要に応じた正当な賃金に対する彼らの権利を認めさせるはずです。反革命は資本家だけでなく労働者の財産も擁護することを強調するために、このことを思い起こすこと が肝要です。その闘争は特定のグループとか階級のためではなく、原則のためなのです。

 

B 共産主義に対抗する戦い

 

さ て、ここでその主な目的が、社会秩序の建設でなく、共産主義に対する闘争である組織について考察することにしましょう。本書ですでに説明した理由ために、この種の組織には正当性があり、しばしば欠かすことができないと考えられます。もちろんこう言うとき、著者はこの種の組織がある国で犯してきたかも知れな い乱用と反革命を同一視するつもりはありません。

 

それにもかかわらず、このような組織の反革命運動の効果は、もしその成員が自分たちの専門とする活動を続けながらも、一定の本質的真理を忘れないようにしていれば、さらに増進すると信じます。

 

●共産主義に対する反駁は知的でなければなりません。キャッチフレーズがどれほど気が利いて、適切なものであっても、その繰り返しだけでは不十分です。

 

● この反駁は、それが文化的雰囲気の中でなされるときは、共産主義の究極的教義の基本に向けられなければなりません。ちょうど教会がカトリック文明とカトリック文化のすべての原則を啓示と道徳法から導き出すように、その本質的特徴を、人間、社会、国家、歴史、文化、その他に関する独特な概念から導き出す哲 学の一学派として、指摘することが重要です。ですから、革命精神に満たされたグループである共産主義と教会の間に妥協などはあり得ません。

 

● いわゆる科学的共産主義は一般には知られていません。そしてマルクス主義は大衆にとって魅力はありません。一般大衆間におけるイデオロギー的反共産主義運動は、しばしば、共産主義に反対することを恥ずかしがる広く見られる精神状態に、その矛先を向けなければなりません。このような精神状態は、富者が消滅す れば貧者もいなくなることになるので、すべての不平等が不正であり、巨大な富だけでなく中規模の富さえも排除されなければならないという、多かれ少なかれ意識的な観念から発生します。これはロマンティックな感傷主義のにおいがする十九世紀の思想を信奉するある社会学派の影響を思わせます。それはしばしば、 反共産主義であると主張しながら社会主義を名乗る考え方の源泉になります。

 

西 欧社会でますます強力になりつつあるこの考え方は、マルクス主義的教化自体よりはるかに危険が大きいのです。それは鉄のカーテンのこちら側の諸国が共産主義共和国に成り下がってしまうまでに、じわじわと私たちに譲歩を重ねさせてしまいます。経済的人類平等主義と政府統制に走る傾向のあるこのような譲歩の積 み重ねは今や随所に見られるようになりました。私企業はますます制限されています。相続税の重みはまるで大蔵省が主相続人であるかのようです。政府が為替相場、輸出入に干渉すれば、企業、通商、銀行は政府に頼るようになります。政府は賃金、家賃、価格、その他すべてに干渉します。それは企業、銀行、大学、 新聞、ラジオ放送局、テレビのチャンネル、その他を所有します。人類平等主義的国家統制がこのように経済を変化させると、不道徳と自由主義は家庭を破壊し、いわゆる自由恋愛に道を開きます。

 

たとえ、ロシアとか中国が政治的大変動に巻き込まれてしまったとしても、はっきりとこのような考え方に対して戦わなければ、西欧社会は五十年から百年の中に共産主義に飲み込まれてしまうでしょう。

 

●政権が教会に完全な自由と完全な支持を与えたとしても、教会はすべての資産が集団的に所有されるような社会機構を正当なものとして受け入れることができないほど、私有財産への権利は神聖なものです。

 

2 キリスト教世界と全世界的共和国

 

普遍的共和国に反対はしても、反革命はキリスト教世界の解体と国際的生活の世俗化によってつくり出された不安定で無機的な状態にも反対します。

 

各 国の完全な主権は、一つの巨大な霊的家族として集められて教会の中で生きる人々が、国際的レベルで自分たちの利害の衝突を解決するために、深くキリスト教精神に鼓吹され、またできることなら聖座の代表者の臨席を得て、団体を構成することを妨げるものではありません。このような団体はすべての面において共通 善のために、また特に、信仰のない人々に対して教会を守ることとか、異教徒または特に共産主義に支配された国々で働く宣教師の保護に関して、カトリック民族の協力も促します。最後に、このような団体は国際関係において秩序を保持するために、カトリックでない諸民族と交渉することができます。 信徒団体が、 いろいろな機会にかかわったかも知れない重要な貢献を否定してはなりませんが、反革命は自分たちの世俗主義に隠れている恐るべき欠点に常に注意を喚起し、人々にこれらの団体が普遍的共和国の種子になる危険があることを警告するべきです。

 

 

3 反革命と国家主義

 

この関係で、反革命は文化、習慣、その他どの分野であろうとも、すべて健全な各地方の特色を保持することを重んじるべきです。

 

しかしその国家主義は、他の国に属する事柄を体系的にさげすむこととか、国家主義的価値をキリスト教文化の偉大な宝庫と無関係であるかのように賞揚すること、とかにあるのではありません。

 

反革命がすべての国々のために渇望する理想は、各国特有の価値の維持と各国同士の兄弟的関係を必然的に伴うキリスト教的理想にほかなりません。

 

4 反革命と軍隊主義

 

反革命は軍事力による平和でことが足りるとするものではありません。それは不正な戦争と現代の武装競争を憎みます。

 

しかし、平和が常に勝ち誇るものであるという幻想も持たないので、この追放の地では軍隊というグループも必要であると認め、彼らがそれに値する同情、感謝、賞賛を示すのに吝かであってはなりません。何しろ、彼らは共通善のために生命を賭けて戦う使命を持つ人たちですから。

 

 

1 特に第一部七章2を見よ。

 

2 第二部十二章7を見よ。

 

3 ウィンヌ、The Great Encyclical Letters of Pope Leo XIII、四百八十五~四百八十六ページ、レオ十三世の回勅 "Graves de Communi"、一九〇一年一月十八日を参照。

 

4 マタイ五・十三参照。

 

5 第一部七章3、A、kを見よ。

 

6 第一部十二章を見よ。

 

十二章

 

教会と反革命

 

以 上見てきたように、革命は世俗的社会の完全な破壊、道徳秩序の完全な転覆、神の否定に導く無秩序な欲望の爆発から生じます。ですから革命の終局的目的は教会、キリストの神秘体、真理を誤ることなく教える教師、自然法、それ故に世俗社会自体の究極的基礎の守護者の破壊にほかなりません。

 

ですから、私たちは革命が滅ぼそうと欲する神的制度と反革命の関係を調べなくてはなりません。

 

 教会は革命と反革命よりもはるかに高く広い

 

革命と反革命は教会の歴史にとって極めて重要なエピソードです。なぜならそれは西欧教会の棄教と回心そのものであるからです。

 

教会の使命は西欧世界だけでなく、また革命過程の期間にだけ限定されるものでもありません。通過しつつある嵐の中でも、現代教会は誇り高く "Alios ego vidi ventos; alias prospexi animo procellas" (私はこれ以外のの風も見てきたし、これ以外の嵐も知っている)と言うことができるのです。教会は他の場所でも外部から侵入する敵と戦ってきましたし、またこれから世の終わりに至るまで、それ以外の問題や敵に対しても戦うことになるのでしょう。

 

教 会の目的は、魂の救いのためにその直接的霊的権力と間接的世俗的権力を行使することです。革命はこの使命の達成を妨げる障壁です。教会にとって、この特定目的に反する闘争は、他にもいろいろある中でも、障壁の次元に限定された一つの手段以上のものではありません。それはもちろん、もっとも重要な手段ではあ るかもしれませんが、あくまで手段でしかありません。このように、もし革命が存在しなかったとしても、教会は救霊のために必要なことであればすべて実行するのです。

 

こ こで、もし革命と反革命に対応する教会の立場を戦時の国家と比較すれば、もっとはっきり説明できるかもしれません。ハンニバルがローマの門に迫ったとき、彼に対してローマ中にある全勢力が結集しなければなりませんでした。これが最強で勝利をほぼ手中にしている敵に対する重要な対応でした。それはローマをハ ンニバルに対するただの反応に引きずりおろしたでしょうか?だれもそんなことを信じません。

 

同様に、教会がひたすら反革命であるとするのも間違っています。

 

こ の点に関して、反革命はキリストの花嫁を救うためにのみあるのではないことも念頭に置かねばなりません。教会創立者の約束に支持されてはいても、教会が生存するために人間が必要なのではありません。その反対に、教会が反革命に生命を与えます。反革命は教会無しに存立できませんし、また考えられもしません。

 

反革命は革命によって救いを危うくされている多くの魂の救いと、世俗社会を脅かす崩壊の防止に貢献することを欲します。そのために、反革命は自分が教会を救っているなどとむなしく思い込むことなく、教会に頼り、教会に謙遜に仕えなければなりません。

 

2 革命を打ち砕くことは教会にとって大いなる利益

 

もし革命が存在すれば、そしてもし革命が革命であれば、それを打ち砕くことは教会の使命の範囲内にあります。それは救霊のためであり、神のより大いなる栄光のために特別な重要性を帯びています。

 

3 教会は根本的に反革命勢力

 

革命という言葉をここで使われている意味で考察すれば、教会が根本的に反革命勢力であるということは、以上述べてきた事柄の当然の帰結であります。その反対を述べることは教会がその使命を果たしていないということになります。

 

4 教会は最大の反革命勢力

 

も し、カトリック信徒の数、彼らの一致、この世への影響を考慮すれば、反革命勢力の中で教会の右に出るものはありません。しかし、この自然的勢力の考慮がたとえ許されるとしても、それは二次的重要性しか持ち得ません。教会の本当の力はそれが主イエス・キリストの神秘体であることから生じます。

 

5 教会は反革命の魂

 

も し反革命が革命の火を消し、信仰に燃え立ち、位階性の秩序を尊敬し、いとも清らかな新しいキリスト教文化を建設する闘争であれば、それは、特に人々の心の中で行動することによって成功するでしょう。このような行動はカトリックの教義を教え、人々にそれを愛させ、実践させる教会に特有なものです。ですから教 会は反革命の魂そのものです。

 

6 反革命の理想は教会の高揚

 

これは明らかな命題です。もし革命が教会に対する反対であれば、(その一面だけでなく全体として考えられる)革命を憎み、教会を高揚する理想なしに革命と戦うことは不可能です。

 

7 ある意味で、教会の影響範囲より広い反革命の視界

 

上述したことは、反革命の行動が全世俗社会の再構築を包含するものであることを明らかにする助けになります。革命が全世界にもたらした廃墟を見て「全世界はその基盤から構築し直されねばならない」とピオ十二世はおっしゃいました。

 

さ て、世俗社会の反革命による基本的再構築の仕事は、一方では教会の教えから霊感を得るものでなければならず、また他方世俗の秩序に属する具体的、実践的な無数の側面を含んでいます。そしてこの側面で反革命は、常に教導職とその間接的権威にかかわるすべての事柄において教会と密接に結ばれつつも、教会の境界 線外に踏み出します。

 

8 カトリック信者であれば反革命であるべきか

 

使徒である限りカトリック信者は反革命運動家ですが、そのかかわり方には多様性があります。

 

A 含蓄的反革命運動家

 

彼 は含蓄的もしくはあたかも無意識的に反革命運動家であり得ます。これはある病院で働く愛徳修道女会のシスターの場合です。彼女の直接的行為は体の病をいやすことと、魂の善に向けられます。これを彼女は革命の話などまったくしないままに遂行できます。彼女は革命とか反革命とかいう現象にさえ気づかないままこ のように特別な条件を生きることすらできるでしょう。しかし、彼女が魂の善のために働けば働くほど、患者に対する革命の影響を除去します。これは含蓄的反革命と言えます。

 

B 反革命的明確さの現代性

 

現代は革命と反革命現象があふれているので、このような状況が要求するように賢明かつ熱心にこういうことを深く理解、かつ直面するのは、健全な現代性のための条件であるように思えます。

 

ですから、現代の使徒はすべて、常に、明白な反革命的意図と傾向を持つことが非常に望ましいと信じます。

 

つまり、仕事の分野が何であれ、真に現代的使徒は自分の分野内での革命を識別し、自分の行為のすべてにおいてそれに対する反革命的影響を発揮できれば、真に現代的使徒はその働きの効果を高めることになると信じます。

 

C 明白な反革命運動家

 

ある人たちが、カトリックもしくはことさらカトリック的でない社会において、明確に反革命的使徒職を遂行する義務を負うことが許されることを否定する人はいないでしょう。彼らはまず革命の精神と戦術、教義を暴露してその存在を宣言し、人々を反革命行動に強く誘います。

 

そうすることによって、彼らは教会の降神術とかプロテスタンティズムなど教会のその他の敵に対する戦いを専門とする人たちの使徒職と同じか(もしくは確かにもっと深い)当然のかつ功徳ある特殊な使徒職に奉仕していることになります。

 

例 えば、プロテスタンティズムの諸悪について警告するために、できるだけ多くのカトリックもしくは一般社会に影響を及ぼすことは、知的、効果的反プロテスタント的行動のためには疑いなく合法的であり、必要です。反革命の使徒職に従事するかトリック信徒は類似する方法で事を進めるでしょう。

 

どの分野でもありがちですが、この使徒職においてもあり得る行き過ぎが実際にあったとしても、すでに証明したように "Abusus non tollit usum"、つまり、乱用があっても、それが有用でなくなることはない、という原則を無効にするものではありません。

 

D 使徒職そのものではない反革命行動

 

最 後に、厳密な意味では使徒職を実践しない反革命運動家もいます。なぜなら、こういう人たちは革命と戦うために、特定の政党に偏った政治活動とか経済活動などのように、ある一定の分野における活動に専念するからです。疑いなく、これらの活動は非常に大事であり、こういう人たちにも声援を送ることに吝かであっ てはなりません。

 

9 カトリックアクションと反革命

 

カ トリックアクションという表現をピオ十二世が定義した意味、つまり、教導職の指導の下にその使徒職に協力する諸団体の連合という意味でで使用するならば、著者の考えでは、反革命はその宗教的、道徳的側面において健全に現代化されたカトリックアクションプログラムの重要な一部分です。

 

当然、反革命行動は個人の資格で働く個人もしくは複数の人々によって遂行され得ます。しかるべき教会当局の同意があれば、この行動は革命に対抗する特別な使命を受けた宗教的同盟の結成に高められることができます。

 

明らかに、厳密に政党政治的、経済的分野はカトリックアクションの目的の一部ではありません。

 

10 反革命と非カトリック信者

 

反革命は非カトリック者の協力を受けても良いのでしょうか?反革命のプロテスタント、回教、その他は存在するのですか?教会外に本物の反革命は存在しません。しかし、例えばあるプロテスタントとか回教徒が革命の邪悪さを理解し始め、抵抗し始めることは考えられます。このような人たちは革命に反対する障壁、時とし ては頑強な障壁になることが期待されます。もし彼らが神の恵みに応えるならば、優秀なカトリック信徒、つまり効果的な反革命運動家になることすら可能です。その時までに、彼らは少なくともある程度革命に反対し、それを押し戻すことさえあります。彼らは言葉にある十全かつ真の意味での、反革命運動家ではあ りません。しかし、教会の指針が要求する注意をもって彼らの協力は受けても良いだけでなく、受けるべきです。

 

カトリック信徒は、聖ピオ十世が賢明に忠告なさったように、諸教派合同の連合に付き物の危険には特に注意を払うべきです。


実に、他の点に触れることなく、この種の連合故に、民が自分たちの信仰と教会の法と掟への正当な従順を危うくする危険は、間違いなく重大です。

 

非カトリック信徒と協力する場合、私たちの最良の使徒職は反革命的傾向のある人たちに重点を置くべきです。

 

 

1 チチェロ、Familiares、十二・二十五・五。

 

2 ピオ十二世、ローマの信徒に宛てた勧告、一九五二年二月十日、Discorsi e radiomessagi、十三巻四百七十一ページ。

 

3 上記の5を見よ。

 

4 聖ピオ十世、回勅 "Singulari quadam"、一九一二年九月二十四日、パリ、ボンヌプレス、七巻二百七十五ページ。

 

第三部

 

革命と反革命

 

二十年後

 

 

一 九七六年、著者は新しいイタリア版の『革命と反革命』に序文を書くよう依頼されました。しかし、本論の初版出版からすでに二十年も経過していたので、その代わり、その間にあった革命過程の発達を分析することにして、第三部を付け加え、それを一九七七年に発表しました。鉄のカーテンが陥落した一九九二年、著 者は現在の版に見られる分析を付け加えました。  編集者

 

一章

 

革命は絶え間ない変質過程

 

「革命と反革命」初版を出版して以来、数々の出来事に彩られた長い期間が経過しているので、本論で取り扱った諸問題に関して、何か付け加えることがないのだろうかと当然考えてみたくなります。

 

その答えは、読者もすぐにお分かりのように、しかりです。

 

1 革命、反革命、伝統・家庭・私有財産権擁護協会の二十年にわたる行動と戦い

 

深刻な心理的変貌によって文学への好みが一変してからもう長くなりますが、アレキサンドル・デュマの小説「二十年経って」は、かつてブラジル青少年の愛読書でした。ここに書こうとする事柄は著者にこの小説を連想させるのです。

 

一九七九年が終わろうとするこのときに、著者は一九五九年を思い起こしています。つまり、私たちは本書出版の二十周年記念に近づきつつあります。そうです。あれから二十年経ちました…。

 

その間、本書は版を重ねたものです。

 

著 者は「革命と反革命」を単にアカデミックな論文にしておくつもりはなく、当時直面していた問題と義務にかんがみて、約百人のブラジル青年たちが自分たちの座右の書とすることを念頭に置いていました。当初のあのわずかの人数、つまり伝統・家庭・私有財産権擁護協会(TFP)の種子とでも言うべきグループはす ぐに、一つの大陸とも言えるほどのブラジル全土に広がりました。運のいい出来事は重なるもので、南米全土に類似グループが自発的に形成され、発展し始めました。同様に、その後は合衆国、カナダ、スペイン、フランスにもこの運動は広まりました。さらに最近のことになりますが、知的な近さと将来が楽しみな親し い関係がこれら諸団体を、その他ヨーロッパ諸国の人々や団体と結びつけ始めました。フランスでは、一九七三年創立の伝統・家庭・私有財産権擁護協会(Bureau Tradition, Famille, Propriétéが私たちと緊密な連携関係に入りました。

 

この二十年は拡張期でしたが、同時に、激しい反革命闘争の年月でもありました。

 

このような連携関係のおかげで、ある程度の成果を上げることもできました。ここでそれらを列挙できませんが、伝統・家庭・私有財産権擁護協会もしくは類似の団体が存在するところでは、絶えず反革命、つまり宗教的領域ではいわゆるカトリック左派、現世的領域では共産 主義に対する闘争を繰り広げました。共産主義に対する闘争には共産主義の準備段階、もしくは幼虫状態でしかないあらゆる形態の社会主義が含まれました。この闘争は本書第二部にある原則、目的、規範に従ってなされました。

 

このようにして収穫を見た果実は、本書中が主張する革命と反革命の間にある不可分の関係がどれほど正確であるかを示すものです。

 

1 絶え間なくかつ急速に変化する世界にあって、革命とか反革命は今でも存在するのだろうか? 答えはしかり

 

「革命と反革命」が六つの大陸で版を重ね、その実りをもたらしている間に、四世紀に渡って革命過程によって駆り立てられてきた世界は、急速かつ深刻な変貌を遂げました。そのために、この新版を準備す るに当たって、前述したように一九五九年に著者が書いたことに関して訂正とか追加の必要がないか検討する必要に迫られました。

 

「革命と反革命」は時としては理論的分野に、また時としては限りなく理論的分野に近い理論・実践的分野に属します。ですから、もし著者がどのような出来事も研究の内容を変更しないと判断しても驚くに足りません。

 

確 かに、一九五九年に結成されつつあったブラジルの伝統・家庭・私有財産権擁護協会とその姉妹団体が使用した行動様式とスタイルの多くは、新しい情況に応じて変更されたり、適応されたりしました。また、その他に新しいやり方も導入されました。しかし、これらの方法やスタイルは、それが効果的で実践的な下位の 分野に属するので「革命と反革命」自体が変更を迫られるわけではありません。故に、本文の書き換えは不必要でした。

 

そ れにもかかわらず、歴史が開きつつある新しい地平線に「革命と反革命」を適応させようとすれば、かなりの追加をする必要はあります。しかし、それは単なる補遺に収まるような性質のものではありません。しかし、過去二十年に渡った革命がしてきたことのまとめ、革命によって変革された世界情況の展望があれば、 読者は容易かつ便利に現代の現実に本論の内容を照らし合わせることができるでしょう。第三部の意図はそこにあります。

 

 

1  二回にわたる「カトリシズモ」誌による最初の出版外に、単行本になった「革命と反革命」はポルトガル語で二版、イタリア語で三版(トゥリンで一版、ピアチェンツァで二版)、スペイン語で六版(バルセローナで一版、ビルバオで一版、チリ・サンチアゴで一版、コロンビアで一版、ブエノスアイレスで一版)、フ ランス語で二版(ブラジルとカナダでそれぞれ一版)、英語で二版(カリフォルニア州フラートンとニューヨークのニューロシェル)です。また、マドリッドの雑誌 ¿Que Pasa? とチリ、サンチアゴの Fiduciaにも掲載されました。合計すると九万部に達します。 編集者

 

 現在その正式の名は Association Française pour la Défense de la Tradition, de la Famille et de la Propriété

 

 六つの大陸と二十二の国における伝統・家庭・私有財産権擁護諸協会に関する、豊かな資料を含むUm Homem, uma obra, uoma gesta Homenagem das TFP a Plinio Corrêa  de Oliveira (São Paolo: Ediçôes de Amanhä、一九八九年)

 

 もっと最近の形の社会主義に対する闘争については、一九八二年、合計三千三百万部の出版部数を誇る、西側の新聞雑誌に広く掲載されたプリニオ・コヘイア・デ・オリヴェイラ教授のWhat Does Self-Managing Socialism Mean for Communism: A Barrier? Or  a Bridgehead? は必読。この論文に対してノーベル経済学賞受賞者のフリードリッヒ・A・ハイエックが賞賛の手紙を送りました。また興味深いのはスペインの伝統・家庭・私有財産権擁護協会がそれぞれ一九八八年と一九九一年に出版した España,   anestesiada sin percibirlo, amordazada sin saberlo, extraviada sin querelo: la obra del    PSOEAd perpetuam rei memoriamも重要。― 編集者

 

5 「革命と反革命」はオーストラリア、南アフリカ、フィリピンでも多くの読者を獲得しています。― 編集者

 

二章

 

第三革命の極点と危機

 

1 第三革命の最高調

 

すでに見たように、三 つの大革命が、教会とキリスト教文明を漸進的に破壊する過程の主な段階を形成してきました。十六世紀のヒューマニズム、ルネッサンス、プロテスタンティズムが第一革命でした。十八世紀のフランス革命が第二革命です。今世紀の二十年代に起きた共産主義が第三革命に当たります


これら三つの革命は、それぞれ革命全体の一部をなすものとしてのみ理解できます。

 

革命は過程であるので、第三革命は一九一七年から現在に至るまでその走るべき道のりを突っ走ってきていることは明らかです。現在時点でそれは最高調に達していると見なすことができます。

 

共 産主義政権に属する領土と人口を考察するとき、歴史的にも前例を見ないほど、第三革命は世界規模の帝国の上に権勢を誇っています。この帝国は強力な非共産主義諸国の間に不安定と分裂の原因であり続けます。それだけではありません。第三革命の指導者たちは、非共産主義世界の公然たる共産党だけでなく、隠れ共 産主義者、準共産主義者、非共産主義政党、社会党、その他の政党に留まらず、教会、職業団体とか文化団体、銀行、新聞、テレビ、ラジオ、映画産業、等々の中にさえ潜入している都合のいい愚か者たちの巨大なネットワークを動かすひもをコントロールしているのです。そしてこれだけでも 不十分であると言わんばかりに、第三革命は、後ほど詳述することになりますが、恐ろしいほど効果的に心理的征服という戦術を適用します。このような戦術でもって、共産主義は非共産主義の西欧世論の大部分を馬鹿馬鹿しい無気力に追いやることに成功しています。この分野に限って言えば、第三革命はこのような戦 術でさらに輝かしい成功を納めることができます。第三革命の外側にあって情勢を分析する観察者にとって、こういうことは悩みの種です。

 

解説

 

第三革命内の危機

 

マルクス主義理想郷にとって不可避の果実

第 三革命の極点の国際的次元は、本文が指摘しているように、既知の事実でした。時の経過と共に、共産主義による地政学的、人口学的拡張、共産主義の世界的プロパガンダ攻勢、西欧社会における共産党の占める重みのせいか、各国文化に見られるようになった共産主義的傾向のせいかは明らかでないにしても、この極点 の全体像はさらに明白になりました。

ソ連の攻撃的姿勢は、世界の大陸に向けて核兵器の恐怖戦術さえ使用するものでした。それによって高められたこれらの要因は、世界的に見てモスクワに対する 弱腰と降伏ではないかと見まがう各国の政策に反映されています。近い将来に共産主義の勝利が不可避であるとこれほど多くの富裕階級の人々に考えさせるようになったドイツとヴァティカンの東方政策、無条件の平和一辺主義、政治スローガンと政治信条などがその例です。

私 たちは皆、この左翼の楽観主義による心理的圧力の下に生きてこなかったでしょうか?それはまるで無気力な穏健派にとってはスフィンクスのように謎めいたものでありましたが、各国の伝統・家庭・私有財産権擁護協会とか「革命と反革命」の支持者たちにとっては、悪の象徴であるレビアタンのように不吉なものであ りました。著者はそれが行き着く先である「黙示録」つまり終局を識別していたつもりです。

しかし、それがマルクス主義者の理想郷の不可避的果実であるとして、このレビアタンが克服できない、迫りつつあった危機によって苦しめられていたことに気づいていた人が何と少なかったことでしょう。

この危機はレビアタンを崩壊させたように見えます。しかし、後に見るように、この崩壊は世界中にもっと危険な危機的環境を広げています。

 

明白で大規模な協力ではないにしても、これほど多くの「民主的」国家の政府と、すでにこれほど強力になっている共産主義に対する、狡猾な西側私企業に見られるこの無気力は世界的規模の恐るべきパノラマと言えましょう。

 

こ のような条件の下で、革命過程がそれ以前のペースで歩み続けるなら、第三革命の全面的勝利が終局的には世界中を覆い尽くしてしまうことは避けられません。ではそのためにはどのぐらい期間がかかるのでしょうか?ただ一つの仮定として著者が二十年と言えば、多くの読者は驚くはずです。彼らにとって二十年はいか にも短過ぎるのです。しかし現実には、これが十年、五年もしくはもっと近い将来に起きないとだれが保証できるでしょうか?

 

この全面的破局の近さ、実にその最終的緊迫は、一九五九年と一九七九年の地平線を比較すれば、疑いの余地なく、世界的危機の大変化を示す徴候の一つです。

 

A 最高調にいたる道で第三革命はひたすら全面的かつ無用な冒険を避けた

 

第 三革命の指導者たちは自分たちが好むときに一連の戦争、政治的打撃、経済危機、流血革命によって世界の完全征服を試みる能力があるにもかかわらず、その冒険には明らかにかなりの危険が伴います。第三革命の指導者たちは、自分たちにとってこの危険が不可避であると判断したときにのみ、危険を冒すのです。


実に、もし古典的方法が継続的に使用されて、注意深く避け、計算されなかった危険に革命過程を晒すことなしに、共産主義がその力の頂点に達することがで 

きるとすれば、世界革命を指導する者たちが、どのような冒険にも付き物の修復不可能な破局の危険に自分たちの事業を晒すことなく、世界征服を達成しようとするでしょう。

 

B この革命の次の段階での冒険とは?

 

第三革命の通常のやり方の成功は、過去二十年に渡って非常に強調されるようになった不都合な心理的環境の到来によって危うくなっています。

 

このような情況は共産主義に、今後、冒険を強いるのでしょうか?

 

解説 

ペレストロイカとグラスノスチは第三革命の中止か? それとも共産主義の変容か?

一九八九年末において、国際共産主義の最高指導者グループは共産主義最大の政治操作を始める瞬間が到来したと判断しました。

この操作は鉄のカーテンとベルリンの壁を打ち砕くことにありました。その諸結果は、一九八五年のグラスノスチと一九八六年のペレストロイカによる「自由化」と時を同じくするのです。そうすればソ連世界で第三革命の見せかけの解体を促進することになります。

この解体の代償が何かと言えば、それはその推進者であり執行者であったミハイル・ゴルバチョフが、西欧世界諸政府と私企業から著しい同情と無制限の信頼を勝ち得ることでした。

このようにして、クレムリンはその空の金庫を満たすために巨額の経済援助の流入を期待できようというものです。

この期待が十分に満たされたことで、ゴルバチョフとその仲間たちは、かじを握ったまま悲惨、怠惰、無気力の海の上に浮かび続けることが可能になりました。 このようにして、つい最近まで完全な国家資本主義の奴隷であったロシア人民は、はた目にも気になる受け身の姿で悲惨、怠惰、無気力に直面し続けるのです。この受け身の姿は、道徳的無気力、混乱状態、そしておそらく内乱とか世界大戦に発展し得る国内争乱による危機の発生が頻発するためにも好都合なのです。

以上が、一九九一年八月、ゴルバチョフ・エリツィン、その他が主役を務めたあの話題性に富みながらも、難解な出来事が発生したころの状況でした。このようにしてソ連は解体されて緩やかな諸国連合に変貌し、後にそれさえも消えてしまいました。

キューバでは近い将来フィデル・カストロ政権の崩壊とか、東欧とマグレブから押し寄せる難民の群による西ヨーロッパ乗っ取りの可能性の話もあります。貧し いアルバニア人たちが何度かイタリアに密入国しようとしましたが、これなども新たな「蛮族襲来」の前触れなのかもしれません。

ヨーロッパの他地区と同じく、イベリア半島ではこのような過程を、それまでヨーロッパ各所で簡単に入国を許可された無数の回教徒の存在とか、またさらに多くの回教徒がヨーロッパに来やすくなるために架けられる、ジブラルタル海峡大橋と結びつけて考える人たちもいます。

ベルリンの壁の崩壊と、この海峡大橋建設の効果には驚くほど類似性があります。両者ともヨーロッパ大陸の門を、カール大帝が勝利の中に退けた東からの野蛮人もしくは半野蛮人の大群と、ヨーロッパ以南の地域から来る回教徒の大群に開くことになるからです。

これは、あたかも中世期前の状況が再現されることになる、とでも言いたくなります。

しかし、そこには何かが欠けています。同時並行するこれらの侵入をはね返すあの若さ溢れる信仰に基づく力が、カトリック教徒の間に見られなくなっています。特に言えるのは、カール大帝のような人物がどこにも見あたらないということでしょう。

著者のこの全体像が、諸種の知的サークルの専門家とか客観的メディアによって予見されているすべての結末を取り込んでいないとしても、西側世界におけるこれらの過程の発展を想像してみれば、発生する諸結果の大きさと劇的効果には驚くほかないでしょう。

例えば、消費国と貧しい国々、つまり、豊かな工業国家と原材料を生産するだけの貧しい国々の間には対立点が増えています。

この対立は二つのイデオロギーが世界規模で衝突することを予想させます。前者は無制限に富裕になることを求め、後者は無制限の消費拡大に反撥する困窮者の立場をとるでしょう。

この最終的衝突は不可避的に、マルクスが言うところの階級闘争を想起させます。

故に、著者は問います。この闘争はマルクスが第一義的には諸国で起こる社会経済的現象として予言した世界規模での闘争、それぞれの特徴に応じてすべての国を巻き込む闘争になるのでしょうか?

もしそうなれば、第一世界と第三世界の間の闘争は、それによって破局的社会経済的失敗に懲りて変貌したマルキシズムが、新たな成功の可能性に賭けて、医師 ではないにしても少なくともペレストロイカの吟遊詩人であり、奇術師であるゴルバチョフがそれまでにどうしても達成できなかった、最後の勝利を目指すための闘争となるのでしょうか?

そうです。疑いもなく、著者自身がそのおひろめのために書いた書物「ペレストロイカ・わが祖国と世界のための新思考法」は、洗練された共産主義であるペレストロイカについて以下を主張します。

「この改革のねらいは…命令に頼る極端に中央集権主義的統制体系から、民主主義的中央集権主義と自己統制の組み合わせに基づく民主的体系への移行を確保することです」。

そして、もしそれが「ソ連の至高目的」でなければ、この自己統制は一体何であると言うのでしょうか?それは以前のソ連憲法の前文にちゃんと書かれてあります。

 

2 第三革命が古典的方法を使用するときに遭遇する思いもかけない障壁

 

A 説得力の減退

 

共産主義に冒険の道を選択させるかもしれない情況はどのようなものでしょうか?

まず、それは共産主義者が改宗者を獲得するに当たって説得力を失ったときです。

 

国際共産主義の主な党員獲得法が、明確かつ無条件の思想教育であった時期もありました。

 

余りにも多過ぎて列挙が困難である理由のために、西側世界のほぼ全体と世論の大部分で、このような教化活動は困難になっています。共産主義の弁証法とその公開の教義プロパガンダは目に見えて説得力を失っています。

 

そのために、現代共産主義の宣伝はますます仮面の下で穏健な、漸進的方法で行われます。

 

そ の仮装はマルクス主義原則を社会主義的文書に薄く、かつヴェールを懸けることによって、また体制側自体の文化の中に、後で実を結ぶ種子のように一定の原則を埋め込んでおき、中道の人たちに共産主義の教義全体を思いがけず、また徐々に受け入れさせることによって達成されます。

 

B 指導力の減退


間接的、かつ緩慢で苦労の多い方法が示すように、大衆に対する共産主義信条の直接的説得力の減退は、共産主義の指導力が相関的に減退したことに伴います。

 

どのようにこれらの相関的現象が観察されるようになったか、またその結果がどのようなものであるかを調べてみましょう。

 

― 憎悪、階級闘争、革命

 

本質的に、共産主義運動は階級間にある憎悪から生まれた革命であり、広くそう見なされてもいます。暴力がそれに付随するもっとも一貫した方法です。これこそ共産主義の指導者たちが最小のリスクを伴い、可能な限り最短時間で最大効果を期待できた直接的かつ威嚇的方法でした。

 

こ の方法は共産党に指導力があることを前提とします。過去において、この能力は人々の間に不満を生ぜしめ、それを憎悪に変貌させ、この憎悪を巨大な陰謀に具体化させ、この憎悪の衝動から来る「原子爆弾のような」力で現体制を破壊し、各地に共産主義を植え付けることに成功しました。

 

― 憎悪と暴力使用の指導の減少

 

しかし、憎悪に方向性を持たせる能力も、共産主義者たちの手から失われつつあります。

 

こ の事実の複雑な原因を説明するには紙面が足りません。過去二十年を見ると、共産主義者たちにとって、暴力がもたらす利点がますます少なくなったことを指摘するだけに留めておきます。この点を証明するために、ラテン・アメリカに広がったゲリラ戦とテロリズムが必ず失敗に終わったことを思い起こすだけで十分で す。

 

ア フリカのほぼ全土が、暴力によって共産化を強制されたことも事実ではあります。しかし、この傾向は世界の他の地域で同じであったことを意味しません。アフリカのほぼ全土に見られる原始状態は彼らの状態を特別で、決定的なものにします。かの地で暴力が増加したのはイデオロギー的動機ではなく、それがむしろ反 植民地主義に根ざす憎悪に基づいていたからでした。それを共産主義のプロパガンダはその常とするずるさでもって利用しただけです。

 

― この衰退の実りと証拠・第三革命は微笑の革命に変貌

 

過去二十年もしくは三十年にわたって、第三革命が革命的憎悪を作り出し、それを指導する能力を失いつつある証拠は、共産主義が自らに課した変貌にほかなりません。

 

スターリン後の西側に対する雪解けの間、第三革命は微笑というマスクを付け、論争を対話に換え、その考え方と態度を変え、暴力で滅ぼそうとしていた敵とすべてにおいて協力を歓迎するふりをしていました。

 

このように、国際分野でも革命は成功裏に冷戦から平和共存へ、その後「イデオロギー的障壁を捨てて」資本主義諸国と「東方政策」とか「緊張緩和」などと呼ばれる宣伝文句を駆使して、協力関係へと移行しました。

 

西 側諸国の国内分野では、スターリン時代には少数のカトリック左派を欺くためのトリックであった手を差し伸べる外交は、共産主義者と資本主義賛同者間の本物の緊張緩和になりました。それは正に共産主義者にとって、宗教的であろうと世俗的であろうと、自分たちの敵に対して暖かい関係と欺瞞的接近を始めるには理 想的方法でした。

 

そこから、一連の「友好的」戦術が生まれました。例えば、同伴者、モスクワに対しては友好的ではあっても用心深い法律的「ユーロ・コミュニズム」とか「歴史的妥協」等がそれに当たります。

 

既述したとおり、これらの戦術は今日の第三革命に利点をもたらします。しかし、それらが実を結ぶのは緩慢、漸進的であり、かつ無数の変数に影響を受けます。

 

そ の力の絶頂点にあって、第三革命は脅迫したり、攻撃したりする代わりに、微笑し始め、お願いし始めました。それはゆっくり、かつ慎重に進むために、軍靴を踏み鳴らす軍隊的歩調を止めました。最短距離を行く直線的行動を止めて、不確かそうに見えるジグザグの道を進むようになりました。

 

二十年の間に何という変貌を遂げたものでしょう! 

 

C 反論 ― イタリアとフランスにおける共産主義者の成功

 

しかし、イタリアとフランスでそのような戦術が成功しても、自由世界で共産主義が後退しつつあるるとか、微笑する現代共産主義がレーニンとかスターリン時代のいかめしい共産主義と比較してもっと緩慢に発展していることにはならないと言って、反対する人がいるでしょう。

 

まず彼らに対する答えとしてスウェーデン、西ドイツ、フィンランドの総選挙、大英帝国の労働党政府に見られる不安定は、社会主義の「楽園」とか、共産主義の暴力、等々に対する国民の嫌悪感を示していると言わなければなりません。これら諸国の例が、すでに西ヨーロッパにある二大カトリック・ラテン諸国で反響を及ぼして、共産主義の進出を阻止しつつある顕著な印がいろいろ見られるのです。

 

し かし、著者の意見では、特にイタリア共産党もしくはフランス社会党が獲得しつつある票数の増加が、どの程度本物の共産党支持票であるかは疑問です。(フランス社会党をここに挙げたのはフランス共産党の凋落ぶりのためです。)両者とも自分たちの票田だけでこれほど票数を伸ばしたとは言い難いのです。確かに、 かなりのカトリック票がイタリア共産党に関しては全く例外的虚像、弱さ、無気力、複雑さの原因となりました。その本当の意義はいつか歴史が明白にすることでしょう。これらショッキングで人為的情況の選挙予想は、その多くが共産党員以外で共産党に投票する人たちの増加を大体説明できます。さらに忘れてならな いのは、投票時に財閥の直接もしくは間接的影響があったということです。共産主義に対する彼らのあっけらかんとした協力は、第三革命が明らかな利益を被る選挙操作を可能にします。類似の観察はフランス社会党に関してもなされ得ます。

 

3 変貌した憎悪と暴力は全面的革命心理戦を生み出す

 

共産主義パノラマの大変化の範囲をもっと明白に把握するために、共産主義の大きな今日的希望つまり革命心理戦を分析する必要があります。

 

既述したとおり、憎悪から生まれ、それ自身の内的論理からして戦争、革命、暗殺などの手段で行使される暴力使用に走っていた国際共産主義は、大きく、深い世論の変化のためにその悪意を隠し、これらの手段を断念する振りをせざるを得ませんでした。

 

さて、もしこのような断念が真摯なものであれば、国際共産主義は自分を破滅に追い込むほどに自分自身を否定したことになるはずです。

 

し かし、それはとんでもない誤解です。共産主義は征服と戦争の武器として微笑を利用しているだけです。それは暴力を排除するのでなく、それを物理的で目に見える分野から、目に見えない心理的作用に切り替えているに過ぎません。周辺事情のために劇的かつ可視的手段を含む古典的方法で獲得できなかった魂の深部に おける勝利を、漸進的かつ不可視的に手中にするのが彼らの目的です。

 

もちろん、これは霊的領域で時折、いくつかの作戦を実施するというようなものではありません。その反対にそれは正に征服のための戦いです。世界中のすべての人間を目標にする心理的ではあっても全面的勝利こそ彼らのねらいです。

 

著者は全面的革命心理戦が存在すると主張します。

 

実に、心理戦は人間の全精神を標的にします。つまりそれは魂の種々の能力とその考え方の隅々にまで働きかけます。

 

その目標は全人類です。第三革命の同志またはシンパ、中立派、反対派、すべての人が標的です。

 
そして革命は使用する手段は選びません。その各段階で、どれほど少しずつでも、また目に見えなくても、ある社会集団または個人を共産主義に近づけるために 必要かつ入手可能な方法があればそれを手に入れなければなりません。宗教、政治、社会、経済的確信、文化的態度、芸術的好み、家庭、職場、社会での行動様式など、どのような領域にあってもこれは真実です。

 

解説

 

革命心理戦・文化革命と傾向の革命


一九六八年五月のソルボンヌ大学生の反乱では、多くの社会主義者とマルキシストの著者が、日常生活、習慣、考え方、あり方、感じ方、生活の仕方に影響を与 えることで、政治経済的変化の道を整えるために一定の革命の必要性を認めるようになりました。革命心理戦のこのあり方は文化革命として知られます。

これらの著者によれば、この圧倒的に心理的かつ偏向的革命だけが人類平等主義的理想郷を実現させる点まで、公衆の考え方を変革させることができます。この心理的変化無しに機構的変化は永続しません。

この文化革命の概念は、一九五九年版の「革命と反革命」が「傾向の革命」と呼んだものを包含します。

 

A  革命心理戦争の二大目的

 

第三革命が現在直面するイデオロギーに基づく同志獲得の困難性をかんがみて、そのもっとも有益な活動は同志とシンパにでなく、中立派と敵対派に向けられています。

 

a  中立派をだまして漸進的に眠らせてしまいます。

 

b  その敵対派を折ある毎に分裂、解体、孤立させ、脅迫し、評判を落とさせ、邪魔することです。

 

著者の考えによれば、これらは革命心理戦の二大目的です。

 

このように、第三革命は党員増加がなくても、敵対派を破滅に追い込むことで勝利が可能になります。

 

明らかに、このような戦争を続けるために、共産主義は第三革命攻勢で獲得した頂点の結果として西側諸国に所有するようになった全活動手段を動員します。

 

B  全面的革命心理戦争・第三革命の頂点の結果と現代における諸問題

 

全 面的革命心理戦は、それ故に、既述した二つの相矛盾する要因の組み合わせに起因します。それらは、一方では西側社会そのものであるすばらしい仕組みのほとんどすべての要所に対して共産主義が保持するもっとも徹底した影響力であり、他方では西側世論の深層を説得誘導する能力の衰退です。

 

4 教会内に見られる第三革命の心理的攻勢

 

西側の魂そのものとでも言うべきキリスト教、さらに詳しく言えばキリスト教の充満であり、ただ一つ正統であるカトリックの宗教の魂そのものの中での発展を注意深く調べることなく、この心理戦の全貌を明らかにすることはできません。

 

A 第二ヴァティカン公会議

 

「革命と反革命」の展望内では、微笑するポスト・スターリン共産党が獲得した最大の成功は、不思議なことに、また信じられない思いですが、第二ヴァティカン公会議が共産主義に関して黙示録的・悲劇的沈黙を保ったことでした。

 

この公会議が教義的でなく司牧的なものであったことはよく知られています。確かにこの公会議に教義的視野はありませんでした。しかし、共産主義に関する省略はこの会議を永久に非司牧的公会議として記憶させるものになるのかもしれません。

 

どのような意味で著者がこう主張するのかを以下に説明しましょう。

 

荒 れ果てた、不毛の土地で、四方八方からはちとかあぶとか猛禽類とかに襲われている羊の群を想像してみてください。羊飼いは畑に溝を掘って灌漑作業をしながら、片手間ではちやあぶの群とはげたかを追い払おうとします。この活動を司牧的と呼べるでしょうか?理論的にはそうかもしれません。

 

し かし、同時に腹をすかせた狼、しかもその中のかなりの数は羊の皮をかぶって、羊の群に襲いかかっていたとします。ところで羊飼いたちは狼の化けの皮をはぐとか、追っ払うとかせずに、はちとかあぶとかはげたか退治に一生懸命です。さて、彼らの仕事は良い、忠実な羊飼いの名にふさわしいものでしょうか?

 

つまり、弱い敵は追い払いたかったけど、もっと強い敵には自由勝手に振る舞わせた第二ヴァティカン公会議の教父たちは、よい牧者だったのでしょうか?

 

理 論的はまあ我慢できたとしても、実践的には破滅的な「アジョルナメント」戦術で、第二ヴァティカン公会議ははち・あぶ、はげたかを追っ払おうとはしました。しかし、共産主義に関する沈黙のおかげで、狼どもは全く自由に振る舞うことができました。この公会議の成し遂げたことは歴史の書にも生命の書にも、効 果的に司牧的であったと書き込まれることはありません。

 

こんなことを言うのはつらいのです。しかし、この意味で、その証拠から判断すると、第二ヴァティカン公会議は、最悪ではなかったとしても、最悪の公会議の一つとして数えられます。公会議以来、驚くほど大量の「悪魔の煙」が教会の中に忍び込みました。そしてこの煙は日毎に濃くなっています。数え切れないほど多くの魂をつまずかせながら、キリストの神秘体はあたかも自己破壊の不吉な過程に突入したのです。

 

 

解説

 

教会の公会議後の段階における驚くべき災難


一九七二年六月二十九日、教皇パウロ六世の教話"Resistite fortes in fide"(信仰に強く留まれ)における歴史的宣言は、教会の公会議後の段階における驚くべき災難を理解するには欠かせません。以下に引用するのは"Poliglotta Vaticana"です。

今日の教会の状態に言及して、教皇は自分には「どこかにある割れ目から悪魔の煙が教会の中に入り込んでいる」感じがすると言われました。確かに、疑い、不 確かさ、複雑さ、落ち着きのなさ、不満、対立が見られます。人々はもはや教会に信頼しません。彼らが信頼して、追っかけ回し、真の生命のためのおまじないをせがむのは、新聞とか社会運動でまず目にするこの世的予言者です。私たちはすでにその答えを持っているのに、それに気が付かないのです。光に向かって開 いているはずの窓から疑いが忍び込んでいます…。このような不確かさが教会の中でも幅を利かせています。公会議を終えた教会の歴史は太陽に照らされるはずでした。しかし、その代わりに、曇った、嵐が荒れ狂う、暗い、懐疑心に満ちた、不確かな日々になりました。私たちは教会一致を説くのですが、私たち自身は どうかと言えば、互いにますます離れつつあるのが真実です。私たちは深淵を埋めるどころか、それを掘ってもっと深くしようとしています。

どうしてこんなことになったのでしょうか?教皇は自分の意見を漏らされました。反対する力が介入している、聖ペトロがその書簡の中で匂わせているあの神秘的存在が…。

 

一九六八年十二月七日、同教皇は教皇庁立ロンバルド神学校で神学生たちに以下のように語られました。

教 会は不穏な、自己批判の時に入っています。自己破壊の時とさえ言って良いのかもしれません。それはまるで思いもかけず勃発した複雑な内乱のようなものです。公会議が終わったときにはだれもこんなことを予想していませんでした。公会議の成熟した概念が花開くように、教会は落ち着いて発展するものだとだれも が思っていました。教会には、今でもこのように花開くような側面があるにはあります。しかし "bonum ex integra causa, malum ex quocumque defectu" 悲しい側面だけがもっとも顕著になっています。教会は自分の内部にいる人たちからも傷つけられています。

 

教皇ヨハネ・パウロ二世も教会の情勢に関しては暗い見方をなさっています。

私 たちは現実的に、悲しみをもって、現代キリスト者の過半数が迷い、混乱して、困惑して、幻滅さえも感じていることを認めなければなりません。啓示されて、変わることのない真理に反する観念が幅を利かせています。教義神学上、倫理神学上の明白な異端でさえも広まっています。典礼でさえも勝手に変えられていま す。知的、道徳的「相対主義」に浸りきって、それが理由で何でも黙認されたキリスト信者たちは無神論、不可知論、何となく道徳めいた啓蒙主義、明確な神学も客観的倫理もない社会学的キリスト教に誘惑されています。10

 

同じく、教理省のラッツィンガー枢機卿も後に以下を述べておられます。

公 会議後の結果は、残酷にも、ヨハネ二十三世、パウロ六世を初めとするすべての人たちの期待とは反対であるように見えます…。教皇たちと公会議教父たちは新しいカトリックの一致を期待していました。しかし、その代わりに、教皇パウロ六世の言葉を借りると、自己批判から自己破壊に進んだように見える不一致に遭 遇しました。新しい熱意が期待されていました。しかし、その代わりに、余りにもしばしば、退屈と失意があるのみでした。新しい跳躍が期待されたものですが、その代わりに目にするのは進行する退廃です…。疑うべくもなく否定的結果に導いた間違いの道を思い切りよく引き返すことが、教会の真の改革の前提であ ることを、私たちは明白に宣言しなければばなりません。11

 

歴史の示す所によると、教会が存在し始めて以来二十世紀の間に、教会は数多くのドラマに悩まされてきました。教会の外に生まれた反対勢力はその外から教会を抹殺しようとしました。教会の内側に生じた悪性腫瘍は破門された後、今度は外から凶暴に教会を滅ぼそうとしました。

 

しかし、現今のような教会の破壊を歴史はかつて見たことがあるでしょうか?それは敵による破壊ではなく、世界的にも反響を呼んだ最高レベルからの宣言によると「自己破壊」と呼ばれました。12

 

ここから、教会とキリスト教文明に未だに残されていた財産の総崩れが始まりました。例えば、ヴァチカンの東方政策、共産主義のカトリック世界への潜入などは、この大災難の結果にほかなりません。これらは教会に反して第三革命が挑んでいる心理戦のさらなる成功なのです。

 

解説

 

ヴァチカンの東方政策

東方政策に関する本文を読んだ読者はロシア内に起きたあの大変革は教会上層による巧みな操作によるものではないかと思いたくなるかもしれません。

最上質の情報に基づいて判断したヴァチカンは、内的危機によって腐敗しきった共産主義が自己破壊を始めるであろうことを予見していたのでしょう。そして物 質主義の世界総本部の自己破壊を促すために、観念的スペクトルの反対側に位置するカトリック教会が自分も危機に瀕しているという偽りの信号を送り、おそらくそれが共産主義による教会迫害の手を顕著に緩めさせることになった、と言う人もいます。両方とも死にかかっているのならこのような考えも分からないでは ありません。つまり、私たちは教会の柔軟性に共産世界の柔軟性の条件を帰することができます。

このような考え方に対して、もしヴァチカンの指導者たちが窮乏と荒廃が共産主義を自己破壊に追い込むことを知っていたら、彼らはその悲惨な状態を世に訴え て、共産主義が実際に崩壊したその時点で、ロシアと世界を再び立ち上がらせるために道を準備するよう西側の人々に呼びかけたはずではありませんか?

彼らは黙って、そのような現象がカトリックの影響と富裕な西側が救援の協力をすることなく見過ごしてはいけないはずでした。この警告的宣言だけがソ連が現在のような悲惨と混乱の袋小路に入り込むことを防止できたからです。

ともかく、教会の自己破壊が共産主義の自己破壊を早めたというのは、両者の間に秘密協定でもなかった限り、本当ではありません。

しかし、このような協定、自殺的協定はカトリックの世界にとって非合法かつ有害であったでしょう。このいわば二重の安楽死が起きた期間に教皇であられた方々に、このような仮定が礼に欠けるのは当然のことです。

 

B 教会 ― 革命と反革命勢力の間に繰り広げられる戦いの中心

 

著者が「革命と反革命」を書いた一九五九年、教会は共産主義による世界制覇に抵抗できる一大霊的勢力であると思われていました。

 

一九七六年、司教たちを含む数知れぬ程の高位聖職者たちが、怠りの罪によって、第三革命の協力者、またその牽引力として登場します。ほとんどの場所に巣くう進歩主義はかつて緑の森であったカトリック教会を、共産主義の火が燃え付きやすい薪に変えてしまいました。

 

一言で言えば、この変化の程度は、革命と反革命の戦いの決定点が、世俗から霊的社会に移ったと言っても言い過ぎでないほどです。

 

聖なる教会が今この中心です。その中で、進歩主義者、隠れ共産主義者、親共産主義者たちが反進歩主義者と反共主義者たちと対立しています。13

 

C 「革命と反革命」に基づく反動

 

「革命と反革命」の効果は、これら数多い変化によって無になってしまったのでしょうか?いいえ。

 

一九六八年、当時南米にあった伝統・家庭・私有財産権擁護協会は、特に本書第二部に霊感を受けて、南米のカトリック聖職者と信徒の間への左翼の潜入に関して、教皇パウロ六世に宛てた署名運動を展開しました。

 

五十八日という短期間に、二十万六千三百六十八人の賛同者が署名に応じてくれたのです。

 
著者の知る限り、それは、どのような分野であったとしても、南米に位置する四つの国の住人による大衆署名運動ででした。また、知る限りにおいて、それはこれら四ヶ国の歴史で最大の署名運動でした。14

 

教皇パウロ六世の答えは、無視とか無反応でなく、言うのも辛いことですが、今日カトリック左翼の数多くの推進者たちが尊敬され、自由に動くことを容易にするようなものでした。

 

聖なる教会内に共産主義が大手を振って入り込むのを見て、伝統・家庭・私有財産権擁護協会と類似の諸団体は勇気を失いませんでした。一九七四年、彼らはヴァチカンの東方政策には反対であり「堂々と反対する」旨の宣言を発表したものです。16

 

教皇パウロ六世に宛てた宣言の一部はこの文書の精神を示しています。

 

教 皇パウロ六世聖下、ひざまずいて聖下を尊敬の眼差しで見上げながら、私たちは聖下に忠誠を誓うものであります。牧者の中の牧者であられる聖下にその子供として以下を申し上げます。「私たちの魂はあなたに属しています。お望みのまま私たちにお命じ下さい。ただ一つひれ伏してこいねがうのは、共産党の狼が攻撃 して来るというのに腕をこまぬいて何もしないよう私たちにお命じにならないことです。私たちは良心にかけてこの命令にだけは従うことができません」。

 

こ のような努力だけに留まらず、伝統・家庭・私有財産権擁護協会と類似の諸団体は、一九七六年、それぞれの国でチリ伝統・家庭・私有財産権擁護協会のベストセラーとなった「チリにおける沈黙の教会 伝統・家庭・私有財産権擁護協会は真理の全体を宣言する」を出版すること九版に及びました。17

 

ほとんどすべての国で、それぞれの版はチリで起こっていたことに類似する数多くの印象的出来事を序文に記載しました。

 

人口が多い南米諸国でこの種の本の印刷部数が、成功したときでも普通五千部であることを考えると、この出版事業に対する大衆の反応は勝利であったと言えましょう。南米だけで五万六千部印刷されました。

 

スペインでは、全国に散らばる千人以上の教区司祭や修道司祭が、ソシエダ・クルトゥラル・コバドンガ発行のスペイン語版を飾る勇敢な序文支持の署名をしています。18

 

D TFPと「革命と反革命」に霊感を受けたその他類似団体の行動は有益

 

この戦いの場で「革命と反革命」に霊感を受けた伝統・家庭・私有財産権擁護協会の反革命活動の実際的効果はどういうものであったのでしょうか?

 

カ トリック世論に潜入する共産主義の危険について警告することによって、伝統・家庭・私有財産権擁護協会は不忠実な牧者たちの目を開かせることができました。その結果、彼らは自分自身が迷い出ていたあの滅びの道に、もはや羊をつれて行くことが少なくなりました。これは事情を概観するだけでもすぐに観察でき る事実です。

 

こ れは勝利そのものではありませんが、勝利のためには貴重で欠かせない条件ではあります。伝統・家庭・私有財産権擁護協会は「革命と反革命」第二部の精神と方法に沿って、行動の視野と能力において、その他の健康なグループがこの大闘争に関わっていることを、聖母に感謝します。

 

5 「革命と反革命」の範疇に従って第三革命の二十年を評価する

 

第三革命と反革命の状態を、本書発行二十周年記念を目前にして以下に概略します。

 

一方で、第三革命の隆盛は反革命の近い成功をかつてなく困難にします。

 

しかし他方で、共産主義の勝利にとって現在大きな障害になる同じ反社会主義アレルギーは、反革命にとって確実に有利な中期的条件を醸し出しています。世界各国にある反革命グループはこのような条件を生かす歴史的責任があります。

 

こ の二十年間に伝統・家庭・私有財産権擁護協会は全米に広まり、フランスにも設立され、またスペインにも類似団体が発足しました。旧世界の他の国々にも私たちは知られてきており、人的にも繋がりがあります。彼らと共に、私たちはこの共通の戦いに自らの役割を果たすよう努力しています。19

 

「革命と反革命」出版の二十年後、伝統・家庭・私有財産権擁護協会と類似諸団体は反革命闘争で優秀な諸団体と共闘しています。

 

 

1 導入と第一部三、五章A~Dを見よ。

 

2  著者はここで共産主義が諸教会に潜入する事態について語っています。この潜入が世界にとって、特に聖なる、使徒伝来のローマ・カトリック教会への潜入は極めて危険であることを念頭に置かねばなりません。その理由はカトリック教会が単に教会属の中のカトリックという種ではないからです。カトリック教会は生 ける真の神に属する生ける真の教会であり、私たちの主イエス・キリストの唯一の神秘的花嫁だからです。カトリック教会はほかの教会と比較してもっと偉大で、もっと輝いている教会ではありません。カトリック教会はガラス製の類似品の中にあって光り輝く唯一の本物のダイアモンドなのです。

 

 一九九〇年二月、著者は "Communism and Anticommunism on the Threshold of the Millennium's Last Decade" という声明を発表しました。それはペレストロイカに関して東西共産党指導者たちへの質問状をまとめたもので、八ヶ国で二十一の新聞に掲載され、特にイタリアでは話題になりました。― 編集者

 

4 ミハイル・ゴルバチョフ、Perestroika: New Thinking for Our Country and the World (ニューヨーク、ハーパー&ロー、一九八七年)、三十四ページ。

 

5  西ヨーロッパにおける反社会主義者の急増は、基本的には右派でなく中道の再強化です。これは革命と反革命の間にある闘争にとって間違いなく重要になってきます。ヨーロッパ社会主義が党員を失いつつあると気付くほどに、指導者たちは共産主義からの距離とその恐怖を党員たちに誇示しなければなりません。それ に反して、中道諸派は選挙民から自分たちが社会主義であると思われないように、誇張された反共産主義的立場を誇示するのです。中道諸派の中でも右寄りの人たちは戦闘的に反社会主義者であることを宣伝しなくてはならなくなるでしょう。

 

つ まり、共産主義と共同行動をとることに賛成である左派と中道派は、ちょうど機関車が急にブレーキをかけたときの列車のようになるのです。機関車のすぐ後に連結されている車輌はショックで進行方向と反対の方向に力が働きます。そして、次に続く車輌に類似のショックを与え、この運動は最後の車輌に至るまで続き ます。

 

現在見られる反社会主義アレルギーは、永続的に革命過程の力をそぐ程の深い現象が現れ始めたと見るべきでしょうか?それとも、それは現代の混乱の中に見られる不確かで一時的な痙攣のようなものでしょうか?今までの経過を見ても、確かな答えを出すことはできません。

 

 

6 第一部五章。

 

7 パウロ六世の説教、一九七二年六月二十九日、参照。

 

8 Insegnamenti diPaolo VI、十巻、七百七から七百九ページ。

 

9 同書、六巻千百八十八ページ。

 

10 ヨハネ・パウロ六世、八十年代の人々への布教に関するイタリア第一回全国会議参加中の司祭、修道者にあてた教話。一九八一年二月六日。L'Osservatore Romano、一九八一年二月七日。

 

11 ヴィットリオ・メッソーリ、Vittorio Messori a colloquio con il cardinale Joseph    RatzingerRapporto sulla fede (ミラン、エディツィオーネ・パオリーネ、一九八五年)二十七~二十八ページ。

 

12 ロンバルド神学校でのパウロ六世の教話、一九六八年十二月七日。

 

13 一九三〇年代以来、著者は後にブラジル伝統・家庭・私有財産権擁護協会を創立したグループと共に、教会内での大闘争に発展するまでに、時間と行動を可能な限り利用してきました。著者がこの闘争で最初に攻勢はEm Defesa da Ação Católica (São Paulo: Editora Ave Maria、一九四三年)の出版でした。そこで、著者はブラジルのカトリックアクションに潜む近代主義を非難しました。また、最近の関連論文はA Igreja ante a escalada da ameaça communista apelo aos Bispos silenciosos (São Paolo: Editora Vera Cruz、一九七六年)、三十七~五十三ページ。

 

  四十年以上経過した今日、その闘争は最高潮に達し、それは計りがたいほどに大きく、激越になってきます。この闘争の中にあって、著者は伝統・家庭・私有財産権擁護協会や類似団体の同志が多数参集してくれていることを心強く思います。その広がりは六つの大陸、二十ヶ国以上に及びます。善のために戦場で共に戦 う兵士たちが互いに "Quam bonum et quam jucundum habitare fratres in unum" (見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう)(詩編百三十三・一)。

 

14 一九九〇年、伝統・家庭・私有財産権擁護協会はこの記録を歴史始まって以来最多の請願署名運動で破ってしまいました。当時、ソ連の占領下にあったリトアニアの解放を願って、五百二十一万二千五百八十人の署名を集めたものです。

 

15 "The Vatican Policy of Distention Towrd the Communist Governments - The Question for  the TFP: To Take No Stand? Or to Resist?"共産政府に対するヴァチカンの緊張緩和政策 伝統・家庭・私有財産権擁護協会は中立であるべきか抵抗すべきか?)というタイトルの声明は一九七四年四月、十一ヶ国に散らばる五十七社の新聞に掲載されました。― 編集者

 

16 ガラテア人への手紙二・十一。

 

17 その膨大な典拠の明示とその論証方法、その主張するテーマからして巨人のようなこの著作には、共産党がチリに入り込む以前からの先駆けが存在していました。それはFrei: El  Kerensky Chileno で、著者は Fábio Vidigal Xavier da Silveira です。この書物はチリのキリスト教民主党とその指導者で当時大統領であったエドゥアルド・フライが、マルキシストの勝利に備えて道を準備したことを非難しました。ブラジル、アルゼンチン、コロンビア、エクアドル、イタリア、ベネズエラで印刷されたこの著書は十万部以上売れました。

 

18 今日のスペイン伝統・家庭・私有財産権擁護協会はSociedad Española de Defensa de la Tradición, Familia y Propiedad - TFP Covadonga と呼ばれます。

 

19  現在、アルゼンチン、オーストラリア、ボリビア、ブラジル、カナダ、コロンビア、チリ、エクアドル、フランス、ドイツ、パラグアイ、ペルー、ポルトガ ル、南アフリカ、スペイン、合衆国、ウルグアイ、ベネズエラに伝統・家庭・私有財産権擁護協会と類似団体があります。ローマ、パリ、フランクフルト、ロンドン、エディンバラ、サン・ホセ・ダ・コスタリカ、シドニー、ニュージーランドのウェリントンに代表事務所があり、そのほかにフィリピンにも熱心な賛同者 グループがあります。

 

三章

 

生まれつつある第四革命

 

ここに提示されたパノラマは、第三革命の中に見られる内的変化に触れないと不完全のそしりを免れないでしょう。それは第三革命から生まれる第四革命です。

 

それは正にあたかも自分の母親を殺すようにして生まれつつあります。第二革命が生まれたときも、それは第一革命に磨きをかけ、克服し、それに致死的打撃を与えました。類似の過程を経て、第二革命から第三革命が生じました。すべての徴候から見て、第三革命は現在その頂点にありながら致死的段階にあります。それは第四革命を生み出し、それに殺されてしまうのです。

 

第 三革命と反革命の激突の中に、第四革命が大人に成長するだけの時間があるのでしょうか?後者は革命史の中で新しい舞台の幕開けをするだけの力に育つのでしょうか?それとも、それは第三革命と反革命の激突にそれほどの影響を与えることなく現れ、そして消えてしまう失敗現象に終わるのでしょうか?この短く、 簡単な文書で第四革命に裂かれるスペースの大小は、この質問への答えつまり未来のみが与えることのできる答え次第です。

 

不確かなことは、確かなことにある重要性があるかのように取り扱われるべきではありませんから、第四革命がどのようなものになるのであろうと予想されることについて、少しだけスペースを割愛することにしましょう。

 

1 第三革命の著者たちが予言する第四革命

 

よ く知られていることですが、マルクスも正統非正統を問わず彼のもっとも悪名高い追随者たちも、革命過程の最終段階はプロレタリアートの独裁制度であると信じていました。彼らが考えるこの独裁制度は世界革命のもっとも洗練され、ダイナミックな側面です。そして、マルクスと追随者たちの思考に付きまとう進化論 的神話によれば、世紀を経て進化が永遠に発展するように革命にも終わりはありません。第一革命からすでに二つの革命が生じています。その次は第三の革命が次の革命を生み、この過程は続くのです…。

 

マルクス主義の考え方による二十番目の革命とか、五十番目の革命がどのようなものになるかは、知りようもありません。しかし、第四の革命であれば、それがどのようなものであるかは予想が付きます。この予想はマルクス主義者自身によってすでになされています。

 

こ の革命は、必然的に新しい危機の結果としてプロレタリアートによる独裁制度の放棄になるでしょう。この危機に強制されて、肥満した国家はそれ自身の肥満による犠牲者になるのでしょう。そして、それ自身は滅びて、共産主義者が言うところによれば、人間はかつて無かったような自由、平等、兄弟愛を手に入れた上 で、科学的で協力的状態が到来するでしょう。

 

2 第四革命と同族的忠誠心 ― それは不可避だろうか?

 

ど のようにしてそんなことになるのでしょうか?今日の構造主義的潮流が考えるような同族的忠誠心の社会がこの質問に答えを提供するかどうかについて、著者は疑問に思わざるを得ません。構造主義は同族的生活の中に個人の自由と、それを飲み込む同意による集団主義の間に、錯覚に基づくシンテーゼがあると見なしま す。この集団主義に、いろいろな「私」またはそれぞれの知性、意志、感受性、その結果として個性と相互に衝突するあり方を備えた個人が同族主義的集団人格に溶け込み、消滅してしまいます。このような集団人格は激しく全員に共通する一つの思考、一つの意志、一つのあり方を生み出さないではいられないからで す。

 

も ちろん、この同族主義的様相への道は個人的思考、意志、感受性の古い標準の消滅を通過しなければなりません。これらはますます集団主義的になる思考と討議の形式、感受性によって漸次的に置き換えられることになります。ですから、変貌が起こらなければならないのは主にこの分野です。

 

ではどのようにして? 同族の中で、メンバー同志の結合は主に共通の習慣と共通の意志の源となる共通の考え方、感じ方によって確保されます。個人の理性はほとんど無に、つまり、この衰退させられた状態が可能にする初歩的でもっとも幼稚な動きに帰せられてしまいます。「野蛮な思考」つまり、考えない思考、そして具体的な物にしか向けられない思考が、同族主義的集団主義の融合が払わなければならない値です。そこに込められた「メッセー ジ」は混乱していても、超心理学の不思議な世界から沸き上がってくる幻想的希望、もしくは閃きが詰まったトーテム崇拝によって、この集団的心理生活を神秘主義的レベルで維持するのはまじない師の役目です。このような「冨」を獲得することによって、人は理性の衰退を補償することになるのでしょう。

 

かつて聖書の自由解釈、デカルト主義、その他の原因で衰退させられ、またフランス革命で神化され、共産主義の学派という学派から恥ずかしげもなく乱用された理性は今や超心理的トーテム主義によって衰退させられ、隷属させられることになるのです。

 

A 第四革命と超自然信仰

 

"Omnes dii gentium daemonia." 聖書によれば、異教徒が信じる神々は悪魔です。魔 術が一種の知識として提示されるこの構造主義的視野に立って、カトリック信徒はどの程度までこの偽りの閃きを見分けることが可能なのでしょうか?この閃き、不吉でありながら魅惑的で、慰めに満ち、蠱惑的、無神論的でありながら詰まらぬ物を信じ込ませそうな歌声でもって、暗黒の王子は永遠に至るまで彼が潜 む深淵の底から、イエス・キリストとその教会を否定する人たちを魅了します。

 

こ れは神学者たちが検討すべき問題です。ここで著者が言う神学者とは本物の神学者のことです。つまり、今に至るまで悪魔と地獄の存在を信じている少数の神学者、特にその中でも、マス・メディアによる嘲笑と迫害にめげず発言する勇気を持ち続ける極少数の神学者たちということです。

 

B 構造主義と前同族的忠誠心の傾向

 

構造主義運動を第四革命の多かれ少なかれ正確な、しかしどちらにしても簡略的な姿としてみる限りにおいて、私たちは過去十年か二十年の間に一定の現象が広がって、構造主義的運動が準備し、かつ推進していることに気付かねばなりません。

 

そ こから、西側では服装の伝統が捨てられ、ますますヌードがかった格好をする人たちが増えています。明らかにそれは、行く着くところまで行き着けばば、ある種族が着用する羽でできた腰みのとか、気候の関係ではラップランドの人たちが着るような厚手の毛衣とかに向かって進むものと思われます。

 

礼儀作法の急速な消滅は最後には、他には言いようがないのでこう言いますが、同族主義的作法の絶対的簡素化に落ち着くのでしょう。

 

道 理にかない、組織化され、系統的になっていることに示す嫌悪感の増大は最終的にその臨終の喘ぎの中に、原始生活時代もかくやと思われる永遠かつ気まぐれの放浪生活と、生きるために絶対必要ないくつかの活動をほとんど本能的、機械的に果たす動作を交互に繰り返すことに落ち着いてしまいます。

 

知的生活、特に抽象化、理論化、教義的思考に対する嫌悪は究極的には五感、想像力の栄養過多になり、その結果教皇パウロ六世が人類に警告することを義務と思われたあの「イメージの文化」に成り下がってしまいます。

 

もう一つの症状は、ある人たちによれば中国共産主義がその第一の標本であるとは言われるものの、未だに不明確なポスト工業時代の母胎となる文化革命に対するしばしば田園詩的な郷愁です。

 

C 控えめな貢献

 

常にだだっ広く、簡略化されたパノラマ的概観には反論が付き物であることを著者は認識しています。

 

本章の制約の下で必然的に簡略化されて、著者が示したあらましは、どの時代にあってもある人たちに、未来予測を可能ならしめる観察と分析の大胆かつユニークな技巧を備えた人々の念入りな考察への、控えめな貢献でしかありません。

 

D 凡人たちの反対

 

未 来を予見する代わりに、ある人たちは単に、凡庸で臆病な魂がここ何世紀にわたってしていたのと同じことを繰り返します。彼らは微笑しながらこのような変化が不可能であると言い張ります。なぜかと言えば、このような変化は自分たちの知的習慣に相容れないからです。このような変化が自分たちの常識外の出来事だ からです。凡人たちは、歴史とは普通自分たちの常識的判断に従って進むものであると思い込んでいます。ですから、このような展望を前にすると、彼らは信じられないといった風情で楽観的微笑を浮かべるのです。こういう人たちは、発生期の第一革命を詰まらぬ「修道者たちのけんか」としてしか理解できなかった教 皇レオ十世を思い起こさせます。時としてハープシコードが奏でる銀の音色に耳を傾け、またお忍びとはいえ王妃の領土のような田園風の環境でぜいたく三昧に浸って「フェヌロンにすべてを任せていた」ルイ十六世も、宮殿の豪華な広間で第二革命の勃発を耳にしたときは慌てるどころか、微笑さえ浮かべていたもので す。王の微笑はスターリン後の微笑の共産主義による操作、または第四革命の前兆であった諸争乱を目前にする教会の最高位を占める方々も含む高位聖職者たち、西側世俗社会の指導者たちの微笑と何ら変わるところがありません。

 

も しある日、霊的領域では教会一致の進歩主義に助けられて、第三もしくは第四革命が人類の世俗的生活を乗っ取るようなことがあれば、それは革命を目論む軍隊と彼らのプロパガンダのせいによるのでなく、微笑することしか知らなかったこれら楽観的常識の予言者たちによる不注意及び協力の結果です。

   

解説

 

常識の使徒たちによる反対


彼らは世にも珍しい予言者です。なぜかと言えば、彼らの予言は何も起こらないであろうということに終始するからです。

最終的に種々の形を取る彼らの楽観主義は、明らかに一九八六年以後の出来事と矛盾しています。ですから、彼らの支持者たちは同じ路線を取り続けるために、 東ヨーロッパにおける最近のできごとが共産主義、故に共産主義が最近まで先頭に立っていた革命過程の決定的終焉の前触れであるとするとんでもない全く架空の希望にすがりついたのです。

 

E 教会内の同族的忠誠心とペンテコスタリズム

 

明 らかに、第四革命が同族主義に取り込むことを望んでいるのは世俗社会だけではありません。彼らは霊的領域でも同じことをたくらんでいます。主イエス・キリストが制定し、二十世紀にわたる教会生活の歴史が形作った教会構造のあの気高く、芯のある硬骨さを軟骨性で、柔らかで、まとまりのない境界線無しの教区と 小教区基本構造とか、構造主義的、同族主義的まじない師の同類に過ぎないペンテコスト派の「予言者たち」がますます幅を利かせる、宗教的グループ組織に変貌させようとする神学者とか教会法学者たちの考え方にそのやり方をすでに明瞭に見ることができます。そういう教会の中で、確固とした教会法的権威は衰え、 その代わりに構造主義・同族主義のまじない師に相当するペンテコスト派の「予言者たち」が次第に幅を利かせるようになります。最終的にはこれらの予言者たちはまじない師と見分けがつかなくなってしまいます。同じことは構造主義の細胞・部族の様相を取る進歩的ペンテコスト派的小教区もしくは教区についても言 えます。

 

解説

教会的権威者たちの「非君主化」


この歴史的・類推的視野において、この過程にはそれ自体無縁であるはずである一定の修正を、公会議前の静的状態と本書が示す反対の極端の間にある移行段階として見ることができます。

その一例として挙げられるのが連帯性への傾向です。それはまず、教会内で権力を行使するに当たって受容され得る唯一の手段であると見られています。次に、 教会的権威の「非君主化」の現れです。その異なるレベルは、それが異なっていること自体で、自分のすぐ下のレベルによって条件付けられてしまっています。

教会がその役職の穴を埋めるために、時としてそういうことをしなかったというつもりはありません。しかし、最後の結論まで突き詰めると、教会内での国民投 票ならぬ信徒投票が広く根付きそうです。同族主義提唱者たちによると、彼らの夢に沿う形で、位階制はどうしようもなく唯一の神の声としての信徒団への依存に変貌します。しかし、それは神の声どころか、同族主義的信徒団に自分の「神秘的啓示」を供給するペンテコスト派の指導者か占い師の声に過ぎないとしか著 者には思えません。神ご自身の意志に従う教会の使命を果たすのは、教会がこのような信徒団の声に従うことによってでしょうか?理性的に無数の事実が体系化されて、例えば第四革命の勃発に関する仮定のような種々の仮定を提唱するとき、反革命運動家にはまだ何ができるのでしょうか?

 

3 生まれかけている第四革命を前にする反革命勢力の義務

 

「革 命と反革命」の読者にとって、まず、この第四革命の生成過程とそこから派生する世界で、傾向に見られる革命が圧倒的役割を強調することは大事な義務になります。彼は、有益な人間秩序を基本的には覆すものであっても、現代猛威を振るうようになったこの傾向の優位について人々に警告を発するだけでなく、この傾 向の革命に対して戦うために傾向を左右する分野においても、戦う心構えがなければなりません。反革命運動家はまた傾向の革命と革命心理戦の究極的な形、生まれつつある第四革命に対抗できる防壁をできるだけ早く建設するための新しい方法を観察、分析、予見しなければなりません。

 

も し、第四革命に第三革命がその大冒険をする前に発展する時間の余裕があれば、それに対して戦うことを目的として、本書「革命と反革命」にもう一章を付け加えなければなりません。その一章には、初めの三つの革命に費やしたのと同じページ数が必要とされるかもしれません。その理由は、頽廃の諸過程はほとんど限 りなくすべてを複雑にするからです。革命の各段階がそれ以前の段階より複雑になり、反革命の仕事も同じくさらに細かく、複雑になる理由はここにあります。

 

革命と反革命、そして両者を視野に入れてなされなければならない仕事に関する以上の展望でもって、著者は以上の考察を終えます。

 

皆さんと同じく、明日のことは不確かなまま、著者は祈りの中に天地の元后であられるマリア様のあのいと高き御座に目を上げて、詩編作者が主に捧げた言葉をお捧げします。


Ad te levavi oculos meos, qui habitas in coelis. Ecce sicut oculi servorum in manibus dominorum suorum, sicut oculi ancillae in manibus dominae suae; ita oculi nostri ad Dominam Matrem nostram donec misereatur nostri.
天に座しておられる者よ、私はあなたにむかって目をあげます。見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその女主人の手に目をそそぐように、私は私たちの母に目をそそいで、私たちをあわれまれるのを待ちます)。

 

そ うです。大いなる赦しをもたらす痛悔の心、大いなる戦いのための勇気、マリア様の統治をもたらす偉大な勝利において誇ることのない超越心を願って、著者はファチマの聖母に目を向けます。コヴァ・ダ・イリアで一九一七年に予言されたあの黙示録的、しかし何と正しく、私たちを生き返らせる、慈悲深い懲らしめを 教会と人類が堪え忍ばねばならないとしても、著者はこの勝利を心から望みます。

 

 

1 第一部六章3を見よ。

 

2 Claude Lévy-Strauss, La pensée sauvage パリ、プロン、一九六九年参照。

 

3 詩編九十六・五。

 

4  「私が思うに、現代人は余りにも情報が多過ぎて、聴くことをますます喜ばなくなりました。それだけでなく、言葉に対して反応しなくなりました。また、数多くの心理学者や社会学者たちは、現代人がすでに効果を失い、無用になった言葉の文明を卒業して、映像の文化の中に生きている、と主張していることも知っ ています」。(使徒的勧告 Evangelii Nuntiandi、一九七五年十二月八日、 Documentos Pontificios、六版[Petrópolis: Vozes、一九八四年]百八十八、三十ページ)。

 

5 この希望については第三部二章の諸解説を見よ。

 

6 第一部五章1~3を見よ。

 

7 詩編百二十三・一~二参照。

 

結 論

 

以上のページを付け加えて「革命と反革命」初版(一九五九年)を改訂するに当たって、著者は初版とそれ以後の版の短い結論を、入れ替えるとか、書き換えるとかするべきであるか迷いました。しかし注意深く読んでみて、その必要がないと確信しました。

 

当 時と同じく今日でも著者は主張します。ここに書かれていることにかんがみて、反革命諸原則の論理を認める人であればだれでも、今日の情勢は明白です。私たちは教会と革命の間で戦われている闘争の過度期にあります。それは、もしその中の一方が不死でなければ、とっくに終わっている戦いです。それ故に教会の息 子、反革命の戦いの闘士である著者が本書を聖母に捧げることがふさわしいと結論しました。

 

最初の、強力で永遠の革命運動家、この革命の煽動者、その首謀者である蛇の頭を踏み砕いたのは汚れ無き御宿りの聖母でした。これほどの革命運動家は過去にも将来にも他には考えることすら不可能です。マリア様は、それ故に、すべての反革命運動家にとっては守護者です。

 

神の母の全能で普遍的取り次ぎは、反革命運動家たちにとって最大の希望の源です。後に、共産主義が世界各地を侵略しはしましたが、聖母がファチマで「最後には私の汚れない心が勝利を得るでしょう」と宣言なさったとき、彼らに最終的勝利を約束して下さっています。

 

それ故にマリア様、著者が子供としてあなたを称える言葉、愛の捧げ物、絶対的信頼の印をお受け取り下さい。

 

本書を終えるに当たり、この地上における「お優しいキリスト」であり、真理の柱であり、誤ることのない土台である教皇ヨハネ二十三世に、子供としての愛と無制限の従順を誓います。

 

"Ubi Ecclesia ibi Christus, ubi Petrus ibi Ecclesia" (教会のあるところにキリストがおられ、ペトロのいるところに教会があります)。ですから著者は教皇聖下に愛、熱意、献身を捧げます。創刊時からカトリシスモのすべてのページにみなぎっていたこの精神で、著者は本書の出版に取りかかったものです。

 

こ の仕事にかかわるすべての人たちが、同じ精神で動いていることについて疑いはありません。それにも関わらず、著者は無条件にキリストの代理者の判断にこれらの事業をお任せします。著者の主張のどれかが私たちの母、救いの箱船、天の門である聖なる教会の教えから少しでも離れていれば、著者は直ちにそれを撤回 いたします。

 

後書き

 

本 書を読み終えた読者は、必然的に、革命過程が今日どの点にあるのか知りたいと思われるでしょう。第三革命はまだ生きているのでしょうか?ソヴィエート帝国の崩壊は、東ヨーロッパの政治的現実の深みで第四革命が爆発しつつあること、もしくはそれがすでに勝利を占めていることを意味するのでしょうか?

 

私たちは区別することを学ばなければなりません。今日、違った形でではあっても、第四革命導入を提唱する思想は世界に広まっており、ほとんどの所で人々はそれを大声で主張するようになっています。

 

この意味で、第四革命は上昇中であり、それを欲し、反対する人たちを脅かしている人たちにとっては希望に満ちています。しかし、かつてのソヴィエート連邦がすでに第四革命に基づいて形作られたとか、第三革命がまだそこで健在であると考えるのは行き過ぎでしょう。

 

第 四革命には政治的次元があるものの、基本的にそれは文化革命です。つまり、それは人間存在のすべての側面を包含します。それ故に、以前ソ連邦を形成していた諸国の間にあり得る政治的衝突は第四革命に強く影響することが可能です。しかし、そのような衝突が、文化革命によって達成された、すべての人間的行為の 集合である出来事全体を支配するようなことはないでしょう。

 

しかし、ほとんどが相も変わらず以前の共産主義者に支配されている旧ソ連邦諸国の世論はどのようなものなのでしょうか?「革命と反革命」によれば、それは以前の諸革命に大きな役割を果たしたのですから、それによって私たちは何か知ることができないのでしょうか?

 

こ の質問には、別の質問に答えた後でないと、答えることができません。まず、それら諸国には本当の意味での世論というものが存在するのでしょうか?それは体系的革命過程に参加するよう説得され得るのでしょうか?もしそうでなければ、共産主義の国内的、国際的最高指導者たちはこの世論を誘導するために、何を計 画しているのでしょうか?

 

以 前のソ連邦世界の世論は、無関心で、つかみ所がなく、七十年間の完全独裁制の重さによっていまだに身動きできなくなっているので、これらは答えるのが難しい質問です。このような独裁制の下で、多くの場で人々は自分の宗教的、政治的意見を、仲のいい自分の親戚とか、友人にさえもらすことを恐れていました。真 実であろうと偽りであろうと、告発とか密告はシベリアの凍てつく広野での無期強制労働に追いやることがあり得ました。それにもかかわらず、かつてのソ連邦社会における将来を予見するのであれば、これらの質問に答えないわけにはいきません。

 

それだけではありません。国際メディアは、西側消費文化の下に暮らしている豊かなヨーロッパ諸国に、腹をすかした半文明人、つまり半野蛮人が最終的には群をなして移住して来るであろうと報道し続けます。

 

食料だけでなく、思想にも飢えているこれらの哀れむべき人たちは、極端に文明化されていながらも、道徳的腐敗の極みにある自由世界のことをどう判断するのでしょうか?彼らはそういう自由世界に激しく反発しないでしょうか?

 

そして、侵入される側のヨーロッパと、引いて言えば、以前のソ連邦世界において、この衝突の結果はどのようなものになるのでしょうか?そこに登場するのは、自己管理型の、協力的、構造的・同族主義的革命、もしくは著者が第五革命と呼んで憚らない完全な無政府主義、混乱と恐怖の直接的世界なのでしょうか?

 

こ の版が印刷に回される時点で、これらの質問のどれに対して答えるとしても、それは明らかに時期尚早というものでしょう。明日そういう質問をすれば、すでにもう遅過ぎる程に将来が予見し難いから、今質問しなければならないのではありません。実に、人間が持つ無秩序な欲望の嵐と、同族主義・構造主義的「神話」 の興奮に包囲された同族的世界の中で書物、思想家、文明が生き残ったとしても、一体何になるのでしょうか?無の帝国にあってはどんな人間であっても何の役に立たないとは、悲劇的状態にほかなりません。

 

 

ゴルバチョフはまだモスクワにいます。彼が失脚した後でも、ハーヴァード、スタンフォード、ボストン大学等の名門大学が高給で彼に位置を提供しない限り、彼はそこに居続けるでしょう。 ホアン・カルロス国王からの招待でカナリア諸島にあるあの有名なランサローテ宮殿に住むことになるのかもしれません。それとも、あの有名なコレージュ・ド・フランスの客員教授として招聘されるのでしょうか?

 

東 では敗北を喫したものの、共産主義の前指導者を悩ましている唯一のぜいたくは西側が提供する申し出のうちどれを選択するかということです。今のところ、彼は資本主義世界の新聞に連載記事を書くことにしたようです。資本主義世界の最高層は彼を熱心かつ不可解に支持し続けます。ゴルバチョフ財団基金への献金勧 誘のために、ゴルバチョフはやんやの喝采のうちにしばしば渡米しますが、これは何を意味するのでしょうか?

こ のように、ゴルバチョフがその全政治経歴を通じてこの改革が共産主義への反対でなく、それに磨きをかけたものであると主張しているにもかかわらず、さらに自国でゴルバチョフの影が薄くても、西側世界でその資質に疑念を持つ人たちがいても、西側の重鎮たちは、このペレストロイカの男に煽てというメディアの脚 光が当てられ続けることを望み続けるのです。

 

ゴ ルバチョフ政権が崩壊した当時、苦悩の中に弱体化したソ連邦は、幻のような「独立共和国連邦」に変身しました。その内部軋轢は政治家と政治解説者たちを悩ませます。これら共和国のいくつかは未だに核兵器を所有しており、かつてのソ連邦世界で日増しに影響力を増しつつあるイスラムの敵である隣国に向けてそれ を発射することができます。世界的武力バランスを大事に思う人たちにとって、これは心配の種でしかありません。

 

も し彼らが核兵器を使用して攻撃するようなことがあれば、その結果は多岐にわたるでしょう。そのうちの主なものは、以前鉄のカーテン内に住んでいた人たちの大量難民化です。厳しい冬の寒さと目前に迫る破局の危険に追われて、彼らは西ヨーロッパ…米国に移住できるように「願う」ことを二重に迫られるのかもしれ ません。

 

ブラジルで、リオデジャネイロ州知事リオネル・ブリソラ氏が政府の農地改革政策を利用して東ヨーロッパから農民を招聘することを提案したとき、ブラジル政府の農林大臣はそれを良い考えであるとして賞賛したものです。アルゼンチン大統領カルロ・メネム氏はヨーロッパ経済共同体に、こういう農民を何万人でも自国に受け入れる用意があると申し出ています。コロンビア外務省のノエミ・サニン夫人は東からの技術者導入を考慮していることを発表しています。これは、こういう侵入がすでに目前に迫っていると人々が思っていることの現れです。

 

そして共産主義はどうなるのでしょうか? どうなったのでしょうか?当分続きそうな世界平和、また世界規模核戦争の大虐殺を不可能にすると思われる永久平和の見通しに夢中になった大方の西側世論は、共産主義が死滅したぐらいに思い込まされています。

 

死滅したはずだった以前のソ連邦領土にロシアが侵攻したことで、友好と平和という架空の楽園に対する西側との蜜月時代は漸次的に

終わりつつあります。共産主義の終焉という西側の印象は信頼に値するのでしょうか?


まず、共産主義の終焉を疑う意見は少数で、孤立しており、メディアに持てはやされることもありませんでした。

 

そ れにもかかわらず地平線に少しずつ陰が現れ始めました。中央ヨーロッパ、バルカン半島、解体されたソ連邦で、新しく権力の座に着いた者たちの中には以前の共産党員がいくらでもいることが分かってきました。これら諸国の企業私有化の動きは、旧東ドイツは例外としても、一般的に言って、実物以上の見せかけでし かありません。その進み具合はまるでカタツムリのようで、はっきりした方向性すらないことが窺えます。


ですから、これら諸国で共産主義が本当に死んだのかどうか、問い直すことができます。それは複雑な変貌を遂げただけではないのでしょうか?共産主義の見せ かけの崩壊に酔いしれた全世界の喜びようが控えめながらも薄れつつある現今、この件に関する疑いはいや増しつつあります。


西側諸国の共産党は、ソ連邦の最初の崩壊ですべての人には衰えてしまったように見えたものです。しかし、すでに今日その中の一部は、新しい名前の下で再編成を遂げつつあります。名前の変更は復活を意味するのでしょうか?それとも変身なのでしょうか?著者は後者であると思います。しかし、確かなことは未来だけが知っています。


混沌が支配する中ですこしく光と秩序をもたらすために、世界の全体的背景を更新する必要を感じて、本改訂版を世に問います。そして、混沌の必然的結果は混沌状態の悪化という不可解な現象以外にあるでしょうか?

 

 

この混沌の中で、一つのことだけが失敗を知りません。つまり、著者の心とくちびるである前述の祈りです。それは著者と志を同じくする人々にとっても同じでしょう。


Ad te levavi oculos meos, qui habitas in coelis. Ecce sicut oculi servorum in manibus dominorum suorum, sicut oculi ancillae in manibus dominae suae; ita oculi nostri ad Dominam Matrem nostram donec misereatur nostri.
天に座しておられる者よ、私はあなたに向かって目を上げます。見よ、しもべがその主人の手に目を注ぎ、はしためがその女主人の手に目を注ぐように、私は私たちの母に目を注いで、私たちを哀れまれるのを待ちます)。

 

世界が揺れ動いても、ひざまずいて、不動のカトリック魂が持つ常に変わらぬ信頼心をご覧下さい。嵐にあってもそれ以上に強い魂の力で、私たちは心の底から "Unam, Sanctam, Catholicam et Apostolicam Ecclesiam" つまり「一にして、聖なる、使徒伝来のローマカトリック教会を信じ続けます」。

 

 

1 第三部二章解説「ペレストロイカとグラスノスチは第三革命の中止か?それとも共産主義の変容か?」を見よ。

 

2 Folha de S. Paulo、一九九一年十二月二十一日参照。

 

 O Estado de S. Paulo、一九九二年一月十一日参照。

 

 Le Figaro、一九九二年三月十二日参照。

 

 第三部二章解説「ペレストロイカとグラスノスチは第三革命の中止だろうかそれとも共産主義の変容だろうか」を見よ。

 

 Jornal da Tarde, São Paolo、一九九一年十二月二十七日参照。

 

7 Ambito Financiero、ブエノスアイレス、一九九二年二月十九日参照。

 

8 El Tiempo、ボゴタ、一九九二年二月二十二日参照。


Home